米津玄師「IRIS OUT / JANE DOE」インタビュー|2曲に刻んだレゼの魅惑とその足跡、宇多田ヒカルとの制作秘話を語る

──「IRIS OUT」と「JANE DOE」の2曲はまったく違うテイストながら相互に補完的な印象がありました。劇場版「チェンソーマン レゼ篇」の話を受けて、どんなところから制作が始まったんでしょうか?

まず「2曲作ってほしい」というところから始まりました。1曲はエンディングに使用されることが決まっていて、もう1曲は劇中のどこで使われるかを探っていく感じでした。エンディングの「JANE DOE」は最初から「こういうものにしたい」というイメージが強固にあったんですが、「IRIS OUT」は作りながらどうしようか探っていったのを覚えていますね。

──2曲並行して進めていったんでしょうか?

まず「IRIS OUT」から制作を進めていきました。劇中曲ということは決まっていたので、制作進行上の都合からしても早くあったほうがいいだろうと。「IRIS OUT」を作り終えて「JANE DOE」という順番でした。

──米津さんが過去に手がけた「チェンソーマン」の主題歌としては「KICK BACK」がありますが、そこからのつながりは意識しましたか?(参照:米津玄師「KICK BACK」インタビュー

「KICK BACK 2」みたいなものにはしたくないという気持ちは最初から強くありましたね。「JANE DOE」はそうならない予感があったんですが、「IRIS OUT」はちょっと気を抜いたら「KICK BACK 2」みたいになりそうな危険性があった。なので、いかに「KICK BACK」と差別化するかはかなり重視しました。「KICK BACK」が複雑怪奇な構成でダイナミズムがある曲だったので、「KICK BACK」がジェットコースターだとするならば「IRIS OUT」はフリーフォールのような、ドンと始まって一直線に進んでパッと終わるという、潔いものにしたいという意識がすごくありました。

──曲の印象として、「IRIS OUT」はいい意味でとてもフォーカスの狭い曲だと感じました。デンジというキャラクターのどうしようもなさが描き出されているように思ったんですが、そのあたりはどうでしょうか?

今回の劇場版「チェンソーマン レゼ篇」にはレゼという重要な登場人物がいるので、あくまでデンジとレゼの関係性にフォーカスしたほうがいいだろうと考えました。「チェンソーマン」や藤本タツキさんのマンガには男性を振り回す女性がよく出てくる。これは藤本さんの作家性の1つだと思うのですが、今回の「レゼ篇」はまさにそのニュアンスが大きな特色としてある話なので。レゼという非常に魅力的で蠱惑的な女性に振り回される、その軸1本でいく必要があるな、と。そこに焦点を合わせてガンと突き進むようにすれば、「KICK BACK」との差別化が図れると思いました。

これ以上なく気持ちよく自分の感覚を乱してくれる

──楽曲のニュースが出た際のコメントでも「原作のレゼが写ってるページを四六時中開きっぱなしにして睨みつけながら作りました」とおっしゃっていましたが、レゼの魅力はどんなところにあると思いますか?(参照:米津玄師、劇場版チェンソーマンの主題歌として新曲「IRIS OUT」を書き下ろし

気持ちよく振り回してくれる、心地よく騙してくれるところですよね。頬を赤らめて、上目遣いでデンジのことを見て、ちょっとからかいながらも、あなたに好意がありますよということをこれでもかと表現してくれる。そりゃデンジのような人間は騙されるし、ある意味、騙されたいというのは恋愛感情においてけっこう重要な側面だとも思うんですよね。魅力的で、いたずらっぽいところがあって、でも本当は何を考えているのかわからない、ミステリアスなところがある。「いったいあの子は誰ですか?」と言われたら、実は誰も知らないみたいな。これ以上なく気持ちよく自分の感覚を乱してくれるという、そういう存在ですね。

──そういうモチーフから「IRIS OUT」の曲調の発想はどう膨らんでいったんでしょうか?

衝動的な曲にしたいというのはありました。一直線にドーンと進んでいってパッと終わる。がなって歌っているというのも含めて、自分の中でのパンク像に近い曲を作ろうという感じでした。曲を聴いた人の意見の中に「エレクトロスウィングっぽい」という声があったんですけれど、そのつもりはまったくなかったです。

──そうなんですか。

言われて初めて気付いたくらいなので。「エレクトロスウィングっぽい」と言われることに対しては、ちょっと不服な感覚がなくはないんです。ただ、パンクっぽい方向を目指していたとは言いつつも、パンクをやりたかったわけではない。ピアノのニュアンスやスウィング感がそういうふうに聞こえるというのはそりゃそうだと思うし、結果としてエレクトロスウィングっぽくなってしまったという感じです。

──曲の中にはレゼの「ボン」という声のボイスサンプルがとても効果的に使われていますよね。ここの仕掛けや演出についてはどういう考えがあったんでしょうか。

実は非常に単純な話で、最初は声が入っていなかったんですよね。のちのち映画の予告編を確認したら、あまりによくできていて。ちゃんと音にもハマっているし、映画に対しての興味を増幅させてくれる。予告編としての完成度がものすごく高かった。そこに感激したので、「その案いただいていいですか」とお願いして、曲に入れました。

「推し」という存在に見出す“両義性”

──「IRIS OUT」の歌詞についてはどうでしょうか。言葉のチョイスにはどういう意識がありましたか?

歌詞については、ある意味で「KICK BACK」より暴力的になってしまうかもしれないという危惧があって。なぜかというと、性愛的な感情をとにかく相手に投影する形になることは書く前から想像がついたので。人の声で発される「歌」という表現方法の性質上、そこに乗せたあらゆる情念がブーストされて聴き手に届いてしまうところがあるし、マンガやアニメのような架空の世界と架空のキャラを通じて現れる客観的な表現と比較すると、歌はどうしても主観的な性質が強くならざるを得ない。少しでも気を抜くとかなり危うい表現になってしまうなと思っていたところがありました。現代は性欲や性愛的な感情が忌避される時代になってきている感覚があって、ポップスを作る人間としてそこに対してどう折り合いをつければいいのだろうというのは、すごく考えました。

──というと?

まず、性欲とか性愛的な感情を忌避する、その営みの周辺に「推し活」というものがあるような気がしたんです。なので改めて「推し」って何なのだろうと考えました。今となっては「推し」という言葉はあらゆるものに使える便利なワードになっているので、ここではアイドルのように性愛的な感覚が乗っかりうる対象に限定して話しますが、要するにアイドルという存在がルネサンス期の神話画とか宗教画みたいな扱いになっているのではないかと思うところがあるんです。これはあくまで個人的な感覚にすぎないのですが。

──「推し」の対象が宗教的な存在になっているということ?

類まれなる鍛錬を積んで、ダンスや歌やルックスをとにかく磨いて、ある意味、神様みたいな存在として君臨する。清潔で、見目麗しく、触れるのも畏れ多いような存在であると同時に、やはりどこかで性愛的な感情を想起させることに特化している人たちだとも思うんですね。推し活をしている人がそのどちらを受け取るかは人それぞれだと思いますし、もちろん推しを性愛的な目線では見つめていないという人もたくさんいるでしょうが、本質的に神秘的な部分と性愛的かつ人間的な部分が両方ある。

──そこに美を見出しているのがルネサンス絵画に通じるものがある、と。

ルネサンス絵画は、宗教における芸術の営みの一部であると同時に、いわゆるポルノグラフィ的な側面もあって、芸術という名目の下でそれを可能にしたところがある。近年は性欲の発露に対して道徳的によくないことであると言われることが増えてきた。あまりに一方的なそれが他人に危害を加えることを思えばその通りだと思う。なので、社会的な、道徳的な名目を持たせるために、ある意味で非道徳的でキモいものとしての性愛的な要素を脱臭した結果としてできたのが「推し」という言葉であるような気がする。極端なまでに厳しく清潔でいなければいけなかったところからの脱却であるルネサンス絵画からするとベクトルは反対方向ですが、現代のアイドルとルネサンス絵画はちょうどその中間で似たような両義性を持つようになったとは言えないでしょうか。現代では「推し」を作ることが一般的な行為になっていて、そこに救いを見出してる人がたくさんいるので、「推し」というものを否定するようなニュアンスになりたくないんですけど、これはある種の規範意識によって作られた言葉だと思う。その両義性がすごく面白い。これを踏まえたうえで、道徳的熱愛、道徳的浪漫というか、道徳と性愛的な感情の間で揺れ動かざるを得ない感覚を「IRIS OUT」という曲に投影できたらいいのではないかと考えていたところがありますね。


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──エンディング・テーマの「JANE DOE」についても聞かせてください。「レゼ篇」のエンディングで流れるという想定から、最初にどういうものを作るイメージがありましたか?

まず「自分が歌うべきではないだろう」と思いました。「レゼ篇」のエンディングに男性である自分の歌声はあまりに似つかわしくない。あくまで女性の声が先立つ曲でないと成立しないだろうという予感は最初にありました。映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でビョークとトム・ヨークがデュエットしている「I've Seen It All」がすごく好きだったんです。ああいうニュアンスがすごく合うのではないかという感覚があって、それを念頭に置きながら曲を作り始めましたね。そこから紆余曲折があって、ノスタルジックで青春を感じる方向性でも一度作ったりはしたのですが、やはり結果的には男女デュエットで、メランコリックでダークな雰囲気がある曲が一番似つかわしいだろうと考えた。そういう経緯がありました。

──楽曲発表時のコメントでは「誰に歌ってもらうかは深く想定せず作り始めた」と語っていましたが、曲を作っていくどのあたりの段階で宇多田さんのイメージが浮かんだんでしょうか?(参照:米津玄師×宇多田ヒカルのコラボ実現!新曲「JANE DOE」、映画「チェンソーマン レゼ篇」EDテーマに

ピアノリフから作って、Aメロのメロディと歌詞がある程度見えてきたときに、これはもう宇多田さんしかいないのではないかと思いましたね。宇多田さんの歌声に対する個人的な印象としては、メランコリックで寂しそうな、孤独な感じがあると同時に、歌声のハスキーな成分も含めて、ふっと風のように吹き抜けていくようなさわやかさもあると感じていて。そういう両方の性質がある。それに音楽を聴いていると、巨大な才能、楽曲と歌声の素晴らしさにある意味で支配されるような感覚があるんですよね。彼女の内的なものが自分の中に染み込んでくるような。でも、聴き終わったら「あれ、どこにいるの?」という、ふっといなくなってしまうような印象もある。ものすごい存在感と同時に希薄さの両方があるところが、この曲にぴったりなのではないかと。宇多田さんでなければ成立しないとすら思うところがありました。

米津玄師と宇多田ヒカル。

──宇多田ヒカルさんは非常に多面的なアーティストで、これまでに出してきた曲でも、いろいろな表現を形にしていたと思います。その中でも「JANE DOE」には、宇多田さんが表現してきた喪失感の部分が引き出されているように思うんですが、そのあたりはどうでしょうか。

宇多田さんの曲で特に好きなのが「FINAL DISTANCE」と「誰かの願いが叶うころ」で。中学生の頃に聴いたその2曲が、自分の人生に宇多田ヒカルさんの存在が大きく入り込むきっかけになったんです。この間、宇多田さんのライブを観たんですけど、そこでは原曲「DISTANCE」をリミックスバージョンで演奏されていて。「FINAL DISTANCE」に比べるとハッピーで多幸感あふれる感じで歌っていた。「ひとつにはなれない」と歌いながら、すごく楽しそうに踊っている。それがすごくよかったんです。あくまで自分の個人的な感覚ですが、そういう両義性や割り切れなさ、ままならなさみたいなものが彼女の歌には大きくある。それはレゼが持つものと共通する部分があるんじゃないかなと。もちろん彼女がレゼに似ているというわけではないですが。

──「IRIS OUT」では米津さんがデンジの視線の言葉を歌っているわけですよね。それを踏まえて「JANE DOE」を聴くと、宇多田ヒカルさんにレゼを演じてもらうというような見立てを聴き手としては感じてしまいます。そういう意識はありましたか?

宇多田さんには、ものすごく複雑なものを抱えている女の子と、本質的な意味でそれをまったく理解していない男の子によるデュエットを作りたいので、そういうふうに歌ってほしいというオーダーをさせてもらいました。それを彼女なりに解釈して捉えてくれて、こういう形になったという感じです。それ以外は特に細かいお願いはせず、あくまで宇多田さんの好きなようにという感じでした。

米津玄師と宇多田ヒカル。

──レコーディングや楽曲制作においては、宇多田さんとどんなコミュニケーションを?

宇多田さんがロンドンにお住まいなので、レコーディングはデータでのやりとりで往復書簡みたいな形で進めていきました。その中で、一度電話でお話しさせていただいたんですけれど、「こういうふうに歌ったほうが米津さんの歌声がより引き立つと思う」みたいなことを言ってくれたりして。それは本当にそうだなと思ったんですよね。というのも、宇多田さんと自分の歌に対する感覚は全然違う。宇多田さんはレイドバックして豊かにリズムを取っていくR&Bなどの音楽が根っこにあるミュージシャンであって。自分はボカロやDTM的なところが根っこにあるので、縦のグリッドのラインを重視するところがある。オルタナティブロック的に前のめりになったりもする。性質がすごく違う。なので、自分が作った歌に宇多田さんが乗っかってくると、歌がとてもふくよかになるんです。その差異みたいなものがすごくよかったんですよね。さっきも言ったような、複雑なものを抱えている女の子と本質的にそれを何もわかっていない男の子の違いが両立する曲になったので。それは全然狙ってやったわけではないし、結果的にそうなったという話でしかないのですが、これしかないのではないかというところにたどり着いた感覚はあります。

あなたは自分の脚本を書いて、その中で踊っていたんでしょ?

──「JANE DOE」の歌詞を書くにあたってはどういうイメージがありましたか?

最初に浮かんだのが、割れて粉々になったガラスの上に裸足のまま立って、それに傷付けられながら歩いていく情景だったんですよね。レゼは身元が希薄な女性であって、自分の痕跡を消すことが生活の深いところにあるようなキャラクター。そういう人間性の彼女が、割れたガラスの上を歩き、傷付き血が流れていく。それが赤い足跡になって残っていく。その光景が最初に思い浮かびました。「あなたは歩いていたんだよね」という。そういうことをこの曲の中に宿せないかというところを軸に考えました。

──歌詞で一番印象的だったのが、後半の「この世を間違いで満たそう」というフレーズでした。ここは米津さんと宇多田さんが声を重ねて歌う楽曲のクライマックスになっている。この一節がとても美しいなと思ったんですが、これについてはどういうイメージがありましたか?

最初のほうに話した道徳的感性みたいなところと通じる側面があると思うんですけれど、自分の欲求とか「こうありたい」という感覚って、強くなればなるほど、どこか道徳的な感覚から離れていかざるを得ない。どうしても非道徳的にならざるを得ないところがある気がするんです。皆、自分の人生の脚本を自分で書きながら生きていくわけじゃないですか。おそらくこの世でベターな生き方は、その脚本を道徳と一体化させることだと思います。個人的な欲望を手放して道徳に則って生きていく。これは社会的に生きるにあたってはごく当たり前のことだし、否定するつもりなどさらさらないのですが、自分の個人的な欲求や欲望みたいなものを脚本に折り込もうと思うと、どこかで道徳から離れていかざるを得ない。自分個人の脚本を書いて、それに従って踊っていたら、誰かと肩や手がぶつかったりするものだと思うんですよね。そんなもんぶつかられた側からしたらたまったものではないけれど、ぶつかった、あるいはぶつかられたときに「あなたは自分の脚本を書いて、その中で踊っていたんでしょ?」と、「できる限り」思いたい。それがたとえ非道徳的なことで、社会的に間違ったことだったとしても「あなたは踊ったんだよね」という感覚を最後の最後には持っておきたいというか。無論ものには現実的な度合いがあり、酷くぶつかられたらそんな呑気なことを言ってられないような岸に立つでしょうし、そのときにまっこと必要になるのが道徳やそれにまつわる理性、または法律や契約だと思うので、重ね重ねそういうものを否定するつもりはありません。とにかく自分がここで言いたいのは間違いを「肯定する」「肯定しない」みたいな話ではなくて、ただそこにあるものをいかにして見つめるかという話で。例えば、本来オセロは最初ボードに白と黒2枚ずつ配置した状態からゲームが始まるけれど、4枚全部白の状態から黒側の立場で戦わなきゃならない人がいるとします。異を唱えても「これがルールだから」と突っぱねられるとする。ならばその人は、大人しく真っ白に塗りつぶされて勝負に負けるか、もしくはルールも勝負もぜんぶ放棄してボードごとひっくり返すかしか選択肢がない。これはあくまでたとえですが、そういう立場は現実に存在します。そういう立場を見つめることが、自分にとっての音楽制作における重要な指針の1つであって、少なくとも自分はポップスを通じてできる限りそれを大事にしたいと思っている。ポップスだからこそそれが可能な部分もあると信じてやっています。そういう感覚がこのひと言に宿ってほしいという気持ちがありました。

──僕はこの一節に、三島由紀夫の「金閣寺」にも通じる感性を感じました。美しいということには少ならからずそういう側面はあると思います。

「踊り場」という言葉が好きなんです。その言葉の由来には諸説あるらしいですが、その1つに、中世ヨーロッパの貴婦人が階段の中腹をターンするときに、踊っているように見えたから「踊り場」と言われるようになったという説があって。階段の中腹にある踊り場って何もない場所ですよね。「何もない場所で踊る」というイメージがすごく好きで、だからたまに歌詞でも「踊り場」という言葉を使うんですけど。そういう非生産的なこととか、あるいはさっきも言った非道徳的なことを無視しないほうがいいのではないかという、そういう感覚があるかもしれないですね。

自分の技術が許す限り色っぽく

──シングルのアートワークやパッケージ、ミュージックビデオについても聞かせてください。ジャケットのイラストレーションでレゼを描くにあたっては、どんなことを意識しましたか?

自分の技術が許す限り色っぽく描くということは考えました。こちらを誘惑してくるようなニュアンスがないことには絶対に似つかわしくないだろうなという。できる限りそういう方向で描いてみたら、こうなった感じです。

──「IRIS OUT」と「JANE DOE」のジャケットの対比についてはどうでしょうか。足を描いている「JANE DOE」には歌詞とのつながりも感じました。

ジャケットを2つ用意しなければいけないとなったときに、レゼの全身を描いて、それを上半身と下半身で分けることを目指しました。

米津玄師「IRIS OUT」ジャケット

米津玄師「JANE DOE」ジャケット

──IRIS OUT盤にはポラロイドとアクリルスタンドとポーチケースが付きますが、このパッケージの内容もこのインタビューで話したこととリンクしていますね。

そうですね。全身を描くことが決まったときに、アクリルスタンドを付けようと思いました。「推しとはなんぞや」ということを考えていたということもあって、アイドルのパロディみたいな感じで、それを体現させるのがいいのではないかと。

自分の人生にこんなタイミングがあるんだな

──MVに関してはどんなことを考えましたか?

「IRIS OUT」のほうは、さっき言ったように予告編がとてもよかったので、予告を作った方に映画本編の映像で作っていただくことになりました。「JANE DOE」のMVは宇多田さんと2人で撮影しました。監督は山田智和さんです。最近の宇多田さんのMVはずっと彼が撮っているし、米津玄師のMVもずっと前から撮ってくれている。監督は彼しかないと思いました。

──宇多田さんとの撮影はどうでしたか?

あんまり現実感がなかったですね。宇多田さんと背中合わせで座って、撮影しているときはずっと回り続けていて、それをカメラが撮っている。そういうのも含めてなんか夢みたいな光景だなっていう。宇多田さんとお会いするのは2回目だったんですが、変わらず宇多田さんは気さくでフランクで話しやすい方で、自分が画面の向こうで見ていた彼女の姿と変わらない、素晴らしい方でした。

──山田監督やエンジニアの小森雅仁さんなど共通するクリエイターのつながりもあるし、米津さんと宇多田さんはきっとどこかで共演する必然があるのではないかと思っていたのですが、それがこのタイミングだったということも感慨深いです。

自分と宇多田さんを主とした相関図を作れば意外なほど間に共通する人たちがいますが、やはり「チェンソーマン」という素晴らしい原作がなければ、宇多田さんのような方を自分の曲に呼ぼうなんて発想にならなかったと思うので。「チェンソーマン」様々というか、結果的にこういう機会を設けてもらえてすごくありがたかったと思います。

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