【映画評】李相日監督「国宝」…吉沢亮が横浜流星と演じる歌舞伎女形の一代記、芸の力で心奪う
その役者は何を追い求めて、芸の道を歩むのか。李相日監督による映画「国宝」(6月6日公開)は、吉沢亮演じる、美貌の歌舞伎女形の一代記。原作は吉田修一の同名小説、脚本は奥寺佐渡子。暗闇に光の粒子が浮遊しているような「景色」とともに映画は始まる。(編集委員 恩田泰子)
「国宝」から。立花喜久雄(吉沢亮)=(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会半世紀にわたる物語
昭和から平成にかけての半世紀にわたる物語。吉沢演じる主人公、立花喜久雄の波乱に満ちた歩みを、横浜流星が演じる同年代の歌舞伎役者、大垣俊介との対比とともに描く。話は少年時代から始まるから、途中までは、ともに2009年生まれの黒川想矢(「怪物」)が少年喜久雄、越山敬達(「ぼくのお日さま」)が少年俊介を演じている。
喜久雄は、長崎のやくざの家の生まれ。少年時代に父・権五郎(永瀬正敏)を抗争で亡くした後、上方歌舞伎のスター、花井半二郎(渡辺謙)との縁を頼って、歌舞伎界へ。半二郎の息子である俊介と 切磋琢磨(せっさたくま) しながら、女形として芸の道を進んでいく。
「国宝」から。喜久雄(吉沢亮)と俊介(横浜流星)による「二人藤娘」=(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会美貌と才能に恵まれた喜久雄と、 梨園(りえん) の御曹司である俊介は、良きライバルとして成長するが、やがて、それぞれ壁に突き当たり、それまで通りではいられなくなる。喜久雄の才能は、その道を明るく照らすこともあれば、暗い影を落とすこともある。俊介が受け継ぐ名門の血筋もしかり。どうすれば乗り越えていけるのか――。
冒頭から、喜久雄の物語は、歌舞伎の演目とともにドラマチックにつむがれていく。
任侠映画の様式美、バディムービーの楽しさも
幕開けの場は、1964年、長崎。少年・喜久雄の運命が大きく動いた雪の日の出来事が、任侠映画の様式美をも取り込んで鮮烈に描き出される。原作小説の独特の文体、講談調の語り口とも一脈通じる劇的な一幕を彩る演目は「関の 扉(と) 」(「 積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと) 」)。やはり芸道ものである映画「残菊物語」(溝口健二監督)の重要な場面に登場する作品でもある。原作本に掲載されている瀧晴巳の解説によれば、「残菊物語」は、吉田修一が歌舞伎を題材にした小説に挑んでみたいと思うきっかけになった映画だという。
「国宝」から。大垣俊介(横浜流星)=(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会ともあれ、その夜を起点に物語は、前へ前へと走り出す。歌舞伎の世界に足を踏み入れた喜久雄には厳しい稽古の日々が待っているのだが、つらいばかりではない。俊介と2人、青春を芸に捧げる毎日には、バディムービー的な楽しさもある。
そのチャーミングな味わいは、演じ手が、黒川と越山から、吉沢と横浜に変わってからもしばらく続くのだが、やがて残酷な転機がやってきて、無邪気な時代は終わる。本物の役者として生きていくための孤独な闘いが始まる。俊介は出奔する。喜久雄は浮沈を経験しながら、ある「景色」を追い求め続ける。
渡辺謙の人間くささ、田中泯の手招き
「国宝」から。花井半二郎(渡辺謙)=(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会歌舞伎の世界の先人で、喜久雄たちの人生を大きく波立てる人物が、2人登場する。
1人は渡辺謙による半二郎。芸に厳しく、時には残酷な決断をするのだが、生身の人間。上方を 牽引(けんいん) する役者として迎えた華々しい「晴れ舞台」での、人間くさい、あまりにも人間くさい姿に心揺さぶられずにはいられない。
もう1人は、田中泯演じる当代一の女形にして人間国宝の小野川万菊。若き日の喜久雄に向けられた鏡越しのまなざし、そして手招きがまとう不思議な迫力といったら。田中泯の身体表現と万菊の世界が溶け合って空恐ろしさすら感じさせる。ほんの一瞬のことなのに、どこか遠くへ連れていかれるような。
心に焼き付く歌舞伎シーン、重層的なイメージ
原作小説に比べれば、劇中に登場する人物も、昭和・平成クロニクル的なエピソードも、歌舞伎の演目も、ぐっと絞り込まれている。喜久雄が歌舞伎の世界を駆け上がった後の展開は、普通の映画だったら拙速に見えかねないだろう。でも、これは普通の映画ではない。役者の、あるいは女形の何たるかを、長々しいせりふで語るのではなく、役者の身体を真ん中においた鮮烈なシーンをもって観客の心に焼き付けていく。
少年時代の喜久雄(奥、黒川想矢)と俊介(越山敬達)=(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会「二人道成寺」「曽根崎心中」、そして……。この映画の中では、いくつかの演目を、時を経て、もう一度見る時がやってくるが、それはもちろん単なる繰り返しではない。役者としての格闘を経たからこその舞台での姿を、吉沢と横浜は、吹き替えなしでしかと表現する。壁を超えようとする喜久雄と俊介に重なるものを、まさに体現する。
舞台の外でも強烈な印象を残す場面は多い。その一つが、零落の日々を送る喜久雄が屋上に立って天を仰ぐシーン。その立ち姿、映像の色調から思い出されるのは、坂東玉三郎を主人公にした映画「書かれた顔」(ダニエル・シュミット監督)。同作には、玉三郎以外にも、女を表現してきた日本のレジェンドたちが登場するが、その中の一人である舞踏家・大野一雄がダンスする姿と、この屋上シーンの吉沢亮に、何か重なるものを感じずにはおられない。映画と映画が交感して、深遠な世界がひらいたような不思議な心持ちがする。
地べたからふっと解放されるような
人間は、その身体を重力にしばりつけられて、地べたで生きている。でも、高みを目指す役者を、観客として見ていると、ふっと自分も地べたから解放されるような、不思議な気分にさせられることがある。終盤、ある人物が発するせりふにある、「見たことないとこ」へ連れていかれるような感覚に。
「国宝」ポスタービジュアル=(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会この映画の吉沢亮は、その感覚の源泉となる役者の物語を確かに演じている。喜久雄が探し続ける「景色」の存在を確かなものと感じさせる。俳優として、 渾身(こんしん) の力をもって。
俳優に限界突破させる李相日監督ならではの映画だと思う。本当の芸の力を描く映画。そして、人にはその芸の力が必要なのだということを、思い出させる芸道映画である。俳優の身体を通して、観客をひきつけ、心奪い、遠くへ連れていく。
歌舞伎指導は中村鴈治郎。出演もしている。撮影は「アデル、ブルーは熱い色」などのソフィアン・エル・ファニ。美術監督は種田陽平。
◇ 「国宝」 =上映時間:2時間55分/製作幹事:MYRIAGON STUDIO/制作プロダクション:クレデウス/配給:東宝