歴史に根差すプーチンの侵略戦争 ロシア革命は終わったのか アーカイブ「百年の蹉跌」連載あとがき
昨年12月に始まった全80回のアーカイブ連載「百年の蹉跌 ロシア革命とプーチン」が終わった。
この連載が産経新聞に掲載されたのは2017年。世界初の社会主義国家、ソ連を誕生させたロシア革命から100年の節目に、露大統領のプーチンとその体制を歴史の中に位置づける試みだった。読者とともに100年の歴史を旅し、その中からプーチン体制が生まれて長期化した理由、そこに潜む脆(もろ)さや危うさを伝えられたとすれば幸いである。
「百年の蹉跌」第1章1回目が掲載された2017年10月2日付の産経新聞紙面「ロシアは強奪された」
連載後の最も大きな出来事は言うまでもなく、世界に衝撃を与えた22年2月のウクライナ全面侵攻だ。第二次大戦後の欧州で最大規模の戦争となり、今年2月で丸4年にもなる。その行方は予断を許さないが、一つ確かなのは、この戦争がプーチンの歴史認識ゆえに起こされ、彼の誤算もまた歴史に根差しているということである。
プーチンはウクライナ全面侵攻に先立つ21年7月に「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」と題する論文を発表した。その中で、ロシア人とウクライナ人は「一つの民族」だとし、ウクライナの国家としての正統性を疑問視している。
「今日のウクライナは完全にソ連時代の産物だ。それはかなりの程度、歴史的なロシア(の領土)によって造られた」。彼はこう述べ、1917年のロシア革命後、ボリシェビキによって「ロシアは強奪された」と断じた。
プーチンが念頭に置いているのは、今日のウクライナ東部が18世紀後半にロシア帝国領となり「ノボロシア(新ロシア)」と呼ばれていたことだ。ロシア革命後、その領域を含む形でソ連内のウクライナ共和国が設けられ、それがソ連崩壊に伴って独立した。
今日のウクライナはボリシェビキによって、ロシア領を切り取る形で人為的につくられた枠組みであり、本来は存在する理由がない―というのがプーチンの主張である。
革命を罪悪視、スターリンは評価
「百年の蹉跌」で指摘したように、プーチンはおよそ革命というものを罪悪視している。プーチンにとっては「ロシア帝国=偉大なロシア」であり、それはロシア革命とソ連崩壊という20世紀の2度の革命によって大きく毀損(きそん)された。「偉大なロシア」を取り戻す作業を自分はしているのだと考えている。彼によれば、ウクライナはロシアの一部であるか、少なくとも親露的な存在としてロシアとともにあるべきなのだ。
プーチンは、ロシア革命を主導したレーニンとボリシェビキには大きな罪があるが、それを償い、ソ連を立て直して超大国の地位に高めたのは独裁者スターリンだと考えている。
ソ連草創期、レーニンとスターリンが国(連邦)のあり方について論争し、結局、各民族共和国に連邦から「離脱する権利」を与えるレーニン案が通ったことにもプーチンは何度も言及してきた。プーチンは「離脱権」を「時限地雷」と呼び、きわめて否定的にとらえている。この時限地雷こそがソ連末期、民族問題の噴出という形で作動し、国を揺るがしたからにほかならない。
民主主義と民族主義の原動力
しかし、プーチンが抱く歴史観は、革命のダイナミズムを無視したきわめて身勝手なものだ。
ロシア革命とソ連崩壊はともに、民主主義と民族自決を求める運動を原動力として起きた。ロシア革命は、「諸民族の牢獄」と呼ばれたロシア帝国で、民主化を求めた社会主義勢力や、民族主義勢力が帝政を打破したものだ。それは結果としてマルクス主義の仮面をかぶったソ連という名の帝国をもたらしたが、やはり民主化運動や独立運動によって91年に崩壊した。
1991年8月19日、最高会議ビル前に集まった市民に向かい、戦車の上からクーデター阻止を訴えるエリツィン・ロシア共和国大統領(中央)=国営ロシア通信ロシア帝国の一部だったウクライナでは帝政末期に独立・民主化運動が力をつけ、ロシア革命でつかの間の独立が得られた。その後、ウクライナはソ連に取り込まれたが、ソ連末期には民族運動が再び表面化し、ソ連崩壊で決定的な役割を果たした。
独立国となったウクライナはロシアの弟分のような存在だったが、時を経て、またもや民族自決や民主化の要求が噴出した。2014年2月、数カ月にわたる大規模デモで親露派政権が倒れた「マイダン(広場)革命」である。
侵略戦争の淵源
マイダン革命の発端は当時の親露派大統領、ヤヌコビッチがプーチンからの金銭的誘惑を受け、公約にしていた欧州連合(EU)との「連合協定」署名を棚上げしたことだった。人々は政権の腐敗体質に憤り、「私たちはロシアでなく欧州の一員になりたいのだ」と声を上げた。ウクライナ人の多くは「尊厳革命」とも呼んでいる。
これを許せなかったのがプーチンである。14年3月には報復としてロシア系住民が多いウクライナ南部クリミア半島を併合。さらに東部ドンバス地方(ドネツク、ルハンスク両州)の親露派武装勢力を軍事支援し、ウクライナ軍との紛争をたきつけた。プーチンはウクライナに連邦制のような政体を導入させ、東部を足がかりにウクライナを支配しようと考えたのだ。
しかし、東部紛争が膠着(こうちゃく)して目的達成は難しくなり、逆にウクライナは北大西洋条約機構(NATO)接近を強めることになる。そこでプーチンが打って出たのが22年2月の全面侵攻だった。
2015年3月6日、ウクライナ東部ドネツク州デバリツェボの戦闘で破壊された戦車 (遠藤良介撮影)スパイ侵攻の大誤算
それは「ロシア帝国再興」を夢想するプーチン氏とごく一部の側近が始めたものであり、しかも数日か1週間で首都キーウは陥落するとの想定に基づいていた。1カ月余りでキーウ郊外など北部一帯からの撤退を余儀なくされ、4年近く経ってドンバス地方すら完全制圧ができていないのだから大誤算である。
連載で紹介したようにプーチンにはスパイ信仰が強い。
彼が信頼する情報・特務機関は「ウクライナ軍は抵抗しない」「露軍はウクライナで歓迎される」といった類の、プーチンの耳にに心地いい情報ばかりを上げていたのだ。
その証左としてプーチンは開戦翌日の2月25日、国家安全保障会議で「基本的な衝突はウクライナ軍でなく、ナショナリストのグループと起きている」「キエフには麻薬中毒者とネオナチが居座り、ウクライナ人全体を人質にとっている」と耳を疑わせる情勢認識を示していた。26日には国営ロシア通信が「戦勝」を想定した予定稿を誤配信する出来事まであった。
ウクライナ侵略戦争は、独裁というものの醜悪さと危うさを示して余りあろう。
結びついてきた戦争と革命
プーチンのロシアでは政権に異を唱える人々が「体制外」に置かれ、彼らの声が政治に反映されることはない。全面侵攻後、政権は国内の締め付けをいっそう強めており、多くの庶民が沈黙を選んでいる。しかし、戦争の犠牲者が積み上がり、経済の疲弊も極まれば、人々は再び声を上げることになるかもしれない。
20世紀の歴史を振り返れば、日露戦争中の1905年に第1次ロシア革命、第1次大戦中の17年に二月革命と十月革命、泥沼化したアフガニスタン侵攻(78~89年)の後にソ連崩壊が起きており、戦争と体制転換は深く関連している。
果たして、民主化と民族自決を求めたロシア革命のプロセスは続いているのか否か―その答えを私たちはこれから目にしていくことになる。
=敬称略
(遠藤良介)