「ダークマターの母」、宇宙観を大きく変えた伝説の科学者ベラ・ルービンが遺したもの(ナショナル ジオグラフィック日本版)

 ベラ・ルービン(旧姓クーパー)はかつて「私の人生で、星を見ることほど面白いことはありませんでした」と語っていた。  1930年代の幼少期を通じて、ベラは寝室の窓辺で姉と場所争いをしながら星々の軌跡を辿ったり、図書館で科学者の伝記を借りてきたり、農務省に勤めていた父親と初めての望遠鏡を作ったりした。父親は彼女を地元のアマチュア天文クラブにも連れて行き、当時ハーバード天文台長だったハーロー・シャプレーなどの天文学者の講演も聞かせてくれたという。  ベラは高校生になる頃には、ジェームズ・ジーンズの『我らをめぐる宇宙』やアーサー・エディントンの『恒星内部構造論』などの宇宙論の本を読みあさっていた。バッサー大学では天文学を専攻し、大学の望遠鏡を使って観測を行う方法を独学で身につけ、夏休みには米海軍調査研究所でアルバイトをして科学実験の経験を積んだ。  その頃、彼女は両親からロバート・ルービンを紹介された。ふたりは交際を始め、1948年8月に結婚した。多くの人は、彼女の天文学者としてのキャリアはここで終わると思っていた。  ベラはハーバード大学の修士課程に合格していたが、ロバートが物理化学の博士号取得を目指していたコーネル大学に進むことを選んだ。いろいろな障害もあったが、物理学者のリチャード・ファインマンと天文学者のマーサ・スター・カーペンター、そして夫であるロバートの助けを借りて、宇宙が回転しているかどうかを調べる研究プロジェクトを立ち上げた。その間に子どもも生まれた。  1950年にニューヨーク州イサカで開催された米国天文学会で研究成果を発表すると、マスコミにセンセーショナルに取り上げられ、AP通信は「若き母親が米国天文学会を驚かせた」と報じた。彼女の研究生活は因習との戦いの連続だった。

 これだけの研究をしているにもかかわらず、ルービンはしばしば自分が本物の天文学者ではないように感じていた。1954年にジョージタウン大学で博士号を取得し、約1年後にはジョージタウン大学で教職に就いた。その後数年間、さまざまな研究プロジェクトを引き受けたが、常に他人のデータを分析していた。  それでも彼女は学生たちを擁護し、研究に携わった学生の名前を載せることを拒否した学術誌に対して、自分の論文を取り下げると脅すこともあった。  けれどもそんな日々が10年近く続いたとき、ルービンは他人の仕事に頼らなければ自分の仕事ができないことにすっかり嫌気がさしてしまった。  ついに彼女は幸運をつかんだ。恒星の生と死における元素の起源に関する論文で有名な観測天文学者のマーガレット・バービッジとジェフリー・バービッジ夫妻の誘いにのって、一緒に研究を行えることになったのだ。夫妻は銀河にも興味を持っていて、恒星やガス雲の速度を計算する手法をルービンに教えた。 「私はそのとき初めて本物の天文学者になったのです」と彼女は語っている。自分には望遠鏡が必要だと悟ったルービンは、カーネギー研究所の地磁気研究部門を訪れて電波天文学者と話をし、仕事をしたいと言った。  1965年の4月1日にケント・フォードのオフィスに移り、ルービンは生涯ここで研究を続けることになる。数年後、彼女とフォードはアンドロメダ銀河の水平な自転曲線を発見し、他の銀河でも同じものを発見した。  プリンストン大学の理論家のジェレマイア・オストライカーとジム・ピーブルズは、70年代初頭までに銀河のコンピューター・シミュレーションを行い、アンドロメダ銀河のような銀河に渦巻きの形を保たせるにはどうすればよいかを調べていた。  彼らのシミュレーションでは、銀河を表す点の集合を球状の「ハロー」で包んだときだけ、銀河はバラバラに飛び散らずにすんだ。銀河を1つにまとめるには、目には見えない質量が必要なのだ。  観測とシミュレーションが結びつき、天文学者たちは宇宙のしくみについて再考する必要があることを知った。それから徐々にダークマターの概念が根付いてきて、1980年代初頭には「ダークマターは存在する」というコンセンサスが形成された。

ナショナル ジオグラフィック日本版

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