「防弾チョッキを着るな」と治安専門家…〝心の隙〟を戒める 機関銃強盗頻発のニカラグア 国際舞台駆けた外交官 荒船清彦氏(13)

1992年9月、ニカラグアで発生した地震・津波の被害状況を視察する駐ニカラグア大使の荒船清彦氏(右)=荒船氏提供

公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。1960年代から、激動の世界を見てきた荒船清彦元スペイン大使に外交官人生を振り返ってもらった。

「おら東京さ行くだ」の中米版

モモトンボ火山を望むマナグア湖で、水浴びを楽しむ若者たち(黒沢潤撮影)

《1993年、中米ニカラグアに大使として赴任した。その後、外務省中南米局長、アルゼンチン大使、スペイン大使と、スペイン語圏での勤務が続いた》

なにしろ、知っているスペイン語は「ベサメ・ムーチョ」だけ。名曲のタイトルです(笑)。50歳半ばからの外国語習得は、ちょっと大変でした。

当時のニカラグアは、まあ、貧しい国でした。人口は400万~500万人。首都のマナグアも、大地震とそれに続く10年超の内戦とで、まさに廃虚、ないものづくしだった。吉幾三の「俺ら(おら)東京さ行くだ」の中米版みたいなもんです。

中心街や商店街もなく、通りの名前を示す標識も一切ない。ゴルフ場はもちろんない。掘っ立て小屋がひしめき、それもみんな段ボールで作ったもの。支えにする板もない。ましてや鉄筋のビルはほとんどなく、役所もみなバラック。地方はもちろん、首都マナグアでも銃撃戦、機関銃強盗が頻発していました。

頭に撃たれたら〝お陀仏〟

《それでも、人々の表情は不思議と明るかった》

太陽がいっぱいだからか、ラテン気質なのか…。本当にいい経験をしましたね。

実はニカラグアに赴任する前、米国のセキュリティーの専門家に尋ねました。「これだけ治安の悪い国で、どう対処すればいいのか?」と。

すると彼は意外なことを口にしたのです。「防弾チョッキを着用するな」。

チョッキを着ければ、かえって安心し、用心を怠るというんです。頭に撃たれたら、どのみち〝お陀仏〟ですしね。それより「一番大事なことは、安全運転だ。ゲリラに撃たれるよりも、自動車事故で死ぬ方が多い」と言うんです。一理あると思い、従いました。

開始「2時間遅れ」の招待状

《オルテガ左翼独裁政権が崩壊したばかりだったが、名残はあった》

オルテガ氏(中央)(ロイター=共同)

ラテン気質の影響もあるんでしょうけど、最初は時間の感覚に悩まされました。何しろ、時間の観念がわれわれ日本人とはずいぶん違う。午後5時開始の大統領主催レセプションに行くと、5時なのに会場のドアがまだ閉まっている。開いたのは6時半です。

僕とバチカン大使だけ、いつも指定された時間に行くようにしていると、そのうち、みんなより開始が1時間半~2時間遅れの招待状が届くようになりました。

左翼独裁政権時代にできた時間厳守を命じる「革命的規律法」なんてのもあったんです。誰も守らなかったですね。代わりに、よく守ったのが、同じ政権が制定した「離婚法」です。夫婦いずれかが「離婚します」と一言いえば、離婚できるようになるという。カトリックの国だから、離婚は本来、ダメなはずなんですがね…。

地元政界のフィクサー?

《ラテンアメリカも東南アジアと同様、個人的な関係があらゆるものに優先する社会だった》

当時は政界再編の真っただ中で、いろんな政党から「調停役をやってくれ」と頼まれましたよ。

「俺は、外国人だぜ」なんて言っても、「だからどうした? アミーゴ(友達)だろ?」。そんな調子です。

当時はまだ、大使の裁量で自由に使えるカネが少しあって、わずかでしたが全てを使い、電気・ガス・水道がまだ通ってない地域にそれらを通しました。今も「日本が作ってくれた」と看板が立ててあるそうです。

首都のマナグアに10年ぐらい後に訪れました。ビルも立っており、その発展ぶりには驚かされましたよ。

<あらふね・きよひこ> 1938年、大阪府出身。東大法学部卒。62年に外務省入省。在ナイジェリア、在米大使館勤務などを経て78年、西欧第二課長。88年に外務大臣官房審議官(文化交流)、90年に在ロサンゼルス総領事。ニカラグア大使、中南米局長を経て95年にアルゼンチン大使。98年にスペイン大使。退官後、国際経済研究所理事長や書美術振興会会長を歴任。

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