1817年に正体不明の病気で死去、今や「文学史上最大級の謎」に<上> ジェーン・オースティンの最期

英作家ジェーン・オースティンは1817年7月18日、正体不明の病気で亡くなった/Photo Illustration by Alberto Mier/CNN/Universal History Archive/Getty Images; Gillian Pullinger/Alamy Stock Photo; Will Dax/Solent News/Shutterstock

(CNN) 英ウィンチェスター・カレッジのキャンパスに隣接するカレッジストリート8番地。人々は何十年もの間、この場所の前で足を止めてきた。

塗装されたレンガのファサードの中で、建物の重要性をうかがわせる細部はただ一つ、「ジェーン・オースティンはこの家で最期の日々を過ごし、1817年7月18日に亡くなった」と記された玄関の上の楕円(だえん)形の銘板だけだ。だが、敬愛を集める作家オースティンとその作品をこよなく愛するファン「ジェーナイト」にとって、この場所は短すぎたオースティンの生涯の恐らく最も謎めいた1章を示す。

オースティンは1年近く正体不明の病に悩まされ、治療法を探る間、姉のカサンドラと一緒に建物の2階で8週間を過ごした。少しずつ快方へ向かっているように見えたものの、41歳で死去。現代に伝わる明確な診断は最後まで下されなかった。2025年12月16日に生誕250年を迎える中、研究者はいまも死因を巡る議論を続けており、オースティン自身の言葉による症状の描写を手がかりに、パズルを組み立てるようにして健康状態の解明を試みている。

アリゾナ州立大のデボニー・ローサー教授(英文学)は「オースティンが41歳で亡くなった原因が何なのか、明確な答えはまだない」「私たちの机上の診断はいずれも、残された書簡に見られる短い症状の記述から導き出したものだ」と語る。

調査に使える生物学的な証拠が乏しい中、オースティンの書簡や小説は研究者に、最期の日々の手がかりを探る豊かな地図を提供してくれる。オースティンの病気の従来知られていなかった側面に光が当たり、その過程で「説得」など後期作品の新たな解釈が浮かび上がるかもしれない。

ジェーン・オースティンの若い頃を描いたとされる肖像画/Shannon Stapleton/Reuters

オースティンの死因を巡る見解を初めて提示したのはザカリー・コープ氏による1964年の論文で、「アジソン病」で命を落としたという結論だった。アジソン病とは、副腎が一部のホルモンを十分に産生できなくなる珍しい疾患を指す。その後発表された仮説では、胃がんや結核、ホジキンリンパ腫といった死因も提示された。

それぞれ全く異なる病気ではあるものの、米テキサス州フォートフッドのカール・ダーナル陸軍医療センターで内科医を務めるデイシャ・ボイス医師によると、こうした候補となる診断名はいずれも疲労や体重減、食欲不振といった症状を示し、断続的な発熱や悪寒、寝汗に見舞われる可能性がある点で共通する。

オースティンに関する著者があるローサー氏は、「今日に至るまでアジソン病説が最有力視されているのはおそらく、この説が何度も繰り返し言及されてきたからだろう」「近年提起された別の説では、リンパ腫のような進行の遅いがんで亡くなった可能性も指摘されている」と語った。

ただ、いずれの説もオースティンの病状を説明し尽くすには不十分とみられ、別の説が浮上する余地は残されている。

オースティン最期の日々を検証する

亡くなった神経眼科医のマイケル・サンダーズ氏はコープ氏の分析を読んでおり、自身も並々ならぬオースティンファンだったことから、自らオースティンの不可解な体調不良に関する研究に乗り出した。サンダーズ氏はオースティンの生活や執筆の拠点となっていたハンプシャー州の家を保存した「ジェーン・オースティンズハウス博物館」の近所に、20年以上にわたって暮らした経験を持つ。

サンダーズ氏は1970年代、ロンドンを拠点にオースティンの生涯と作品を研究するジェーン・オースティン協会に加入すると、10ポンド(現在のレートで約2100円)を払って終身会員の資格を獲得。2020年にハンプシャー州から通勤圏内にあるロンドンの聖トーマス病院眼科を退職し、名誉コンサルタントになったのを機に、オースティンの死亡時の状況をさらに深く掘り下げたいと思い立った。

ジェーン・オースティンの自宅となっていた家で寝室を見学する訪問者/Dan Kitwood/Getty Images

サンダーズ氏と同僚のエリザベス・グレアム医師(やはり名誉コンサルタントで、医療眼科が専門) は長年、聖トーマス病院の眼科の運営に携わってきた。2人は在任中、リンパ腫や全身性エリテマトーデス、結核の若い患者を多数診察した経験を持つ。

現在「レティナUK」の理事を務めるグレアム氏は、「マイケルはジェーン・オースティンの愛読者だったことから、折に触れてオースティンの死因に思いを巡らせていた」と振り返る。「彼が引っかかっていたのは、オースティンがさまざまな関節の問題を抱えていたにもかかわらず、それがやや見過ごされてきた点だと思う。年配の女性なら時々関節が痛み、多少は疲れるものだ、という思い込みが一部の人にはあったのだろう」

サンダーズ氏とグレアム氏の2人はオースティンの書簡をすべて読み込み、症状の網羅的なリストを作成した。さらに、オースティン研究の第一人者と長くみなされてきたディアドラ・ル・フェイ氏にも、20年8月に亡くなる前に意見を求めた。サンダーズ氏が22年7月に亡くなる前の21年1月に学術誌「ループス」に掲載された2人の研究では、1816年春を境に始まったとみられるオースティンの健康状態の悪化について、包括的な年表を作成している。

ただ、最も具体的な症状の記述が表れるのはオースティンの死の11カ月前、16年8月末の書簡だ。

オースティンが最も頻繁に訴えたのはリウマチ、つまり背中や膝(ひざ)の痛みだった。疲労や発熱にも見舞われ、顔には皮膚の変色を伴う発疹が出た。オースティンは「黒や白、そしてあらゆるおかしな色」が表れたと記している。

症状が収まったように見える時期もたびたびあり、そんな折、オースティンは体調は「まずまず良く」、一時に比べ活動的になっていると記した。だが、症状は決まってぶり返した。

オースティンは17年3月の書簡に「人生のこの時期において、病気は危険な甘えだ」とつづっている。

17年5月、オースティンは主治医からウィンチェスターのパーチメントストリートにある病院のジャイルズ・キング・ライフォード医師を紹介され、カサンドラと一緒におよそ24キロの道のりを旅した。カレッジストリート8番地からおいの1人、ジェームズ・エドワード・オースティン・リーに手紙を書き、「体調は引き続き快方に向かっている」と報告している。グレアム氏によれば、オースティンはロンドンやウィンチェスターで正規の医療を受ける機会に恵まれていたようだ。

「オースティンが現在で言うやぶ医者にかかっていたという証拠はない」「腕のいい医師の診察を受けていた」(グレアム氏)

壁に当時の色をとどめたカレッジストリート8番地の部屋。摂政時代のソファを除けば簡素な内装だ/Camilla Winter-Moore
ローサー氏によると、壁に書かれた引用は「姉妹の間の愛や友情だけでなく、生と死について書かれた言葉」だという/Camilla Winter-Moore
小さな部屋には当時の床板が残っている。オースティンが目にしていた学長の庭の景色も見える/Camilla Winter-Moore
この家には今年夏、6週間にわたって少なくとも23カ国から6500人あまりが訪れた/Camilla Winter-Moore

オースティンがカレッジストリート8番地で過ごした最期の日々については、多くのことが知られている。米ボルティモアのガウチャー大学で教鞭(きょうべん)を取るオースティン学者のジュリエット・ウェルズ氏は、「残された書簡のおかげで、死の数カ月前のオースティンがどんな心境だったのか、実は人生の他の大半の時期よりも詳しく分かっている」と指摘する。

オースティンの健康状態は17年6月から7月にかけて悪化した。脈が弱くなり、大半の時間を眠って過ごすようになった。

7月15日には、ウィンチェスターの競馬の様子を描写した詩句をカサンドラに口述し、それが最後の詩になった。そのわずか数時間後、オースティンの体調は急速に悪化。7月17日、発作を起こして意識を失った。カサンドラに伝えた臨終の言葉は、死以外には何も望まないというもので、「神よ、私に忍耐を与えたまえ。私のために祈りたまえ、ああ、祈りたまえ!」とつぶやいた。

翌日の午前4時半、オースティンは眠ったまま亡くなった。カサンドラの膝の上の枕に頭を乗せた状態だった。

カサンドラはめいのファニー・ナイトに宛てた書簡に、「私はかけがえのない姉妹であり、友人でもあった宝物を失いました」「彼女は私の人生を照らす太陽でした。あらゆる喜びを金箔で彩り、すべての悲しみを癒してくれました。彼女には何ひとつ包み隠さず話していたので、自分の一部が失われたような気がします」と記している。

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