「米国が真珠湾攻撃を引き起こした」と愚痴をこぼす…初代宮内庁長官が聞き取った「昭和天皇の知られざる本音」 長官は「これはこの部屋だけのお話です」と釘を刺した
写真=時事通信フォト
1969年4月29日、高さ1.1メートルの硬質ガラスが張りめぐらされた長和殿のベランダから一般参賀の人たちにこたえられる天皇ご一家(東京・皇居新宮殿)
天皇はふだんどのような会話をし、どんな考えを持っているのか。
天皇に接した人の証言が手がかりだが、それだけでは情報が少なすぎるし、天皇との対話をあるがままに外部に語る人はほとんどいない。やはり天皇という立場への配慮があり、「公式答弁」にならざるをえない。
天皇の「生の言葉」は、聞いた本人が公表する意図なく正直に書き留めた日記、備忘録、メモに表れている。昭和天皇に関しては、戦前は侍従武官長の本庄繁ほんじょうしげる、内大臣の木戸幸一きどこういち、侍従の小倉庫次おぐらくらじ、戦後は侍従次長の木下道雄きのしたみちお、侍従長の入江相政いりえすけまさ、侍従の卜部亮吾うらべりょうごなど、数多くの日記が刊行物として世に出ており、私たちは非公式に語られた天皇の言葉を知ることができる。
そこには包み隠さない天皇のホンネが現れており、人柄、人間性とともに、さまざまな事象にたいしてどのような考えを持っていたかを知ることができる。日本の近現代史において天皇は欠くことのできないキーパーソンであり、その心の内が垣間見える側近の日記類は第一級の歴史資料である。
ただ、これらはオクの人たちによるものである。これまでオモテの長である宮内庁長官の日記、メモ類で世に出ているものは二例しかない。初代の田島道治と昭和末期の富田朝彦とみたともひこのみである。やはり天皇に日常的に接しているオクの人間だからこそ聞けることがあるのだろう、とも思える。
その先入観を一変させたのが、2021年12月から『昭和天皇拝謁記』(岩波書店)として全7巻が刊行された田島の備忘録、日記、資料群である。
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ただ、ふたりを対等に見ていたわけではない。近衛にたいする評価の方が厳しい。
近衛は意思が弱いし、悪にくまれたくないし、聞き上手で誰れにもかつがれるし……。(略)近衛は数字が分らぬ。数字の説明など東条がすると、眠つて了しまふやうな事がある。本当に春秋の筆法からすれば、太平洋戦争は近衛が始めたといつてよい(1952[昭和27]年4月5日、『昭和天皇拝謁記3』)
私と近衛とが意見が一致してたやうに世の中は見てるようだが、これは事実相違だ。(略)近衛が私の考へと一致と見るのは皮相な事で、むしろ場合によれば正反対だ(略)近衛はきゝ上手又話し上手、演説も一寸要点をいつて中々うまいし、人気はあるし、中々偉い点もあつたやうだ。(略)いろいろ長所あつたが、余りに人気を気にして、弱くて、どうも私はあまり同一意見の事はなかつた。(同年5月28日、同)
天皇は近衛と馬が合わないが、内大臣の木戸幸一は「事務的」で「話がよく出来る」と言う。なぜなら「私自身も事務的だから」ということだった。
近衛はよく話すけれどもあてにならず、いつの間にか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直きにその考へも変る。政事家的といふのか知らんが、事務的ではない。
近衛をこき下ろす一方で東條については「いい面と悪い面二つがある」とやや同情的である。
東条は之に反して事務的であつた。そして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた(略)東条は、政治上の大きな見通しを誤つたといふ点はあつたかも知れぬし、強過ぎて部下がいふ事をきかなくなつた程下剋上的の勢が強く、あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になつたかも知れず、又東条の辞職の頃はあのまゝ居れば殺されたかも知れない。(同)
ただ、東條も天皇の意に添う人物ではなかった。「東条も結論だけしか話さぬ式で、徹底する時は結構だが、納得して徹底せぬやうな傾きのある場合に結論だけいふのは駄目になる」(1951[昭和26]年9月8日、『昭和天皇拝謁記2』)とその欠点を挙げる。なによりも信頼を欠いていた。
東条は私の心持を全然知らぬでもないと思ふが、とても鈴木貫太郎(終戦時の首相)のやうに本当に私の気持を知つてない。終戦は鈴木、米内(光政、海相)、木戸、それから陸相の阿南(惟幾)と皆私の気持をよく理解してゝくれて其コムビがよかつた。東条と木戸わるくはなかつたが、とても鈴木の時のやうではない。(同年10月30日、同)
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これまで刊行されたオクの人びとの日記に記されていた天皇の言葉は断片的なものや、いわゆる「丸めた」(筆者による要約)表現が多かった。ところが、田島の『拝謁記』は速記者が書きとった国会議事録のように、天皇との対話が詳細に記述されている。
まさに録音を再生したかのようで、記憶を元にまとめたとは信じがたい生々しさと分量だ。従来の側近の日記とは一線を画す、昭和天皇関連としては突出した資料といえる。天皇の人格、人間観、世界観、思想のすべてとはいえないが、そのかなりの部分を知ることができるといえよう。
『拝謁記』のような膨大な対話記録ができあがった背景には、占領期・象徴天皇制の揺籃期という特殊な状況で、オモテとオクを兼務したような田島の役割があったとみられる。
田島が聞き取った昭和天皇の戦争、歴史、象徴、家族への考えかたも興味深いのだが、読むものを驚かせるのが人物評である。まず、先の戦争に重大な責任がある二大人物、元首相の近衛文麿このえふみまろと東條英機とうじょうひできにたいする見かただ。
「近衛は結局無責任のそしりを免れぬ」
1949(昭和24)年11月5日、天皇は前年3月まで首相を務めていた社会党の片山哲かたやまてつについて、善人だが押され弱いと評した。善人は弱く、逆に強い者は善人ではないところがあり、「人は難しい」と語った。
その流れで「近衛と東条との性格を一人にて兼備するものはなきか」と慨嘆する。「東条は条件的にちやんちやんとやつた。近衛は結局無責任のそしりを免れぬ」のだという(『昭和天皇拝謁記1』)。同じことをくりかえし話していたようで、1カ月後も田島は「東条と近衛とを一身に持つ様な人間があればと思ふとのいつもの仰せを相当永くいろいろの実例にて御話あり」(11月30日、同)と書いている。
筆頭華族出身の育ちの良さ、長身で弁もさわやかで国民に人気があった近衛だが、実務能力に乏しく責任をすぐ投げ出す。東條はものごとに細かく、実務的なことはきちんと実行する。しかし、強権的で説明不足の面があり、人びとの恨みを買った。天皇はそれぞれ一長一短があったと感じていた。