お台場ににじむ「衰退」感… イマーシブ東京は2年で閉業、ゆりかもめ・りんかい線30年の転身
イマーシブ・フォート東京は2022年に閉業したテーマパーク「パレットタウン」の跡地に開業した。実業家の森岡毅氏が手掛ける没入体験をウリにした新たなテーマパークという触れ込みもあって、当初は期待の集客施設と目されていたが、見せ場もなく幕を下ろすことになる。 イマーシブ・フォート東京が奮わなかった理由は多岐に渡り、ひとつに絞ることは難しい。今後、多くの有識者が多角的に分析していくことだろう。 筆者は20年以上前から、東京の湾岸エリアと呼ばれる一帯を継続的に取材してきた。その経験を踏まえると、イマーシブ・フォート東京が早々に撤退してしまう事態は自然な成り行きと受け止めている。なぜなら同地は、オフィスと住居が近接する商住共存を目指していた街で、テーマパークは求められていなかったからだ。
まず、同地の来歴を簡単におさらいしておこう。 同地では、1996年に世界都市博覧会(都市博)が開催される予定になっていた。これは埋立地だった同地には商業施設はおろか住宅すらなかったためで、都市博を起爆剤にして都市開発をする意図を含んでいた。 しかし、青島幸男氏が1995年の都知事選で都市博の開催中止を公約に掲げて当選。青島都知事(当時)は公約を実行して都市博は非開催となった。これに伴って、開発計画は白紙に戻される。 開発機運が萎む中、東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)と東京臨海高速鉄道(りんかい線)という2つの鉄道路線が立て続けに開業する。これら鉄道路線の整備により、陸の孤島と揶揄された “お台場”へのアクセスが改善されていった。これにより、開発機運が再び盛り返していく。
ゆりかもめは昨年に開業30年、りんかい線は今年に開業30年を迎える。それだけに臨海副都心・湾岸エリアと長らく伴走し、運命をともにしてきた存在でもある。 臨海副都心は一般的に“お台場”という名称で親しまれているが、臨海副都心とお台場の範囲は微妙に異なる。さらに、昨今はタワマンが乱立して湾岸エリアという呼び方も出てきているが、湾岸エリアが示す範囲とも違う。 長らく関係者の間で、“お台場”は13号地という呼び方をされてきた。その理由は、13号地は江東区・品川区・港区の3区にまたがるからだ。台場は港区の町名になるため、13号地全体が港区に帰属するという誤解を受けないように13号地という呼称が用いられた。 厳密な呼称は行政職員や開発に携わる関係者には重要だが、無機質なので親しみづらく、浸透しなかった。 本来なら、まちづくりに着手した時点で住民や来街者などに親しみを抱いてもらえるようにするべく愛称を決める必要があった。それも都市博が中止されたことによって開発を急ぐ必要がなくなり、13号地という呼び方は存置される。 それでもレインボータウンという愛称を制定して来街者の呼び込みを図ったが、残念ながらレインボータウンという呼称は定着していない。現在に至っても、関係者は13号地という呼び方を継続して使用している。 “お台場”という呼称が一般的に普及するのは、1999年に石原慎太郎都知事(当時)が誕生したことがきっかけになっている。石原都知事は同地を “お台場”と呼び、それを機に “お台場”が人口に膾炙していく。 呼び名が普及しても、当時の13号地は茫洋とした荒野が広がるだけの埋立地であることに変わりがなく、お世辞にも来街者が足を向けるような場所ではなかった。
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ゆりかもめやりんかい線が開業してから30年という月日で、お台場は東京都の目論見通り商住共存の街へと静かに移行した。すでにお台場は、大規模商業施設をオープンさせて集客を図るような街ではなくなっている。 それは、ゆりかもめやりんかい線の車内を見れば明らかだろう。車内にはビッグサイトへ商談で向かうビジネスマンやお台場に住んでいると思しき住民たちが目立ち、遊びの来街者は少ない。 ゆりかもめは2006年に豊洲駅まで延伸開業したが、それもお台場の商住共存を後押しした。豊洲は2010年代からタワマンが急増し、都内を代表するタワマン街になった。それらタワマン民がゆりかもめを通勤の足として日常的に利用するようになった。 さらに、現在は停滞しているが、ゆりかもめには豊洲駅から勝どき方面へと延伸する計画があり、これもタワマン民が東京駅方面へと通勤するための足と想定されている。 観光色が薄れたお台場で、いまだ訪日外国人観光客を目にすることもある。しかし、撮影名所の自由の女神像やガンダム像の前にも黒山の人だかりはなく、全盛期のお台場を知る者としては悲哀を感じざるを得ない。 イマーシブ・フォート東京は、明らかにお台場の趨勢に逆行していた。イマーシブ・フォート東京は没入体験をウリにしたが、現在のお台場は日常色が強まっている。余韻も冷めないうちに日常へと引き戻されるような環境で、没入体験の集客施設が敬遠されるのは仕方がないことだろう。
商業地として停滞するお台場に、テコ入れをする動きがないわけではない。2022年11月、小池百合子都知事はお台場に3つめの鉄道路線を整備すると発表した。 同線は「都心部・臨海地域地下鉄構想」(臨海地下鉄)ということで、東京駅と東京ビッグサイトを約6.1キロメートルで結ぶとしている。この鉄道路線は、お台場や東京五輪の選手村跡地を整備した晴海フラッグの住民たちに利用されることになる。 それは臨海地下鉄とほぼ同じルートで運行されている東京BRTの現況を見ても明らかだ。東京BRTは新橋駅と湾岸エリアを結ぶ高速輸送システムとして整備された。東京BRTの利用は堅調だが、その利用者の大半は地域住民が占めている。バスと鉄道では公共交通の性格は異なるものの、臨海地下鉄も東京BRTと同じように使われることになるだろう。つまり、住民が通勤・通学のために利用するということだ。 ゆりかもめとりんかい線はお台場の発展を牽引した立役者だが、その役割は30年間で大きく変わってしまった。
小川裕夫/フリーランスライター デイリー新潮編集部
新潮社
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ゆりかもめとりんかい線という2つの鉄道路線が開業したことによって、来街者を呼び込めるようになった。1996年に東京国際展示場(東京ビッグサイト)がオープンし、13号地の存在が少しずつ認知されるようになっていく。 厳密には、東京ビッグサイトは10号地に立地しているが、それは関係者間の認識にすぎない。13号地と隣接している東京ビッグサイトも含め、一般の来街者は東京ビッグサイトも “お台場”と認識する。 東京ビッグサイトの誕生は商業施設を誘い込むとともに、来街者が増えるまでゆりかもめを需要面で下支えするというつなぎの役割を果たした。 しかも、ゆりかもめは単なる移動手段ではなかった。新橋駅からレインボーブリッジを渡ってお台場に至る車窓からは、刻一刻と姿を変えるお台場を眺望できた。その光景は未来都市との期待感を高まらせた。台場に本社を移転させたフジテレビ本社屋の球体展望台も幻想的な雰囲気を演出するのに一役買うことになる。 当時のフジテレビは月9を筆頭に若者に訴求力のある番組を多く制作・放送し、絶対的な人気を誇っていた。本社屋の球体展望台はテレビ局の社屋とは思えない奇抜な意匠で、それも若者を魅了することになった。 特に若いカップルのデートスポットとして人気になり、ゆりかもめもデートプランに組み込まれることが定番になった。ゆりかもめは、華やかなお台場というイメージづくりに貢献した。
東京都も都市博の中止を決定してから、13号地の開発機運が盛り下がらないように腐心した。東京都は、お台場の一部エリアを定期借家権によって民間企業へと貸与することで開発を促進。これにより、パレットタウンがオープンしてお台場のにぎわいが創出されていく。 当初、パレットタウンは10年という期間限定の定期借家契約だったが、想定していた以上に来街者を集めることに成功した。そうした理由から、東京都は契約を延長していた。 しかし、2020年に新型コロナウイルスが感染拡大したことを境にお台場は暗転する。コロナ禍を機に来街者が減少し、それと同時に商業施設の撤退が相次ぐ。 もともと13号地は商住共存というコンセプトを目指した街だった。ゆえに東京都は定期借家契約という期間限定で民間企業を誘致していたわけだが、そうした事情は関係者以外に知らされることはない。来街者や観光客の目には、単に「お台場が衰退した」「お台場から魅力が喪失した」と映るだろう。 そんなイメージは、2005年頃より銀座や日本橋といった都心回帰の現象が強まり、訪日外国人観光客でにぎわうようになって強調されていく。 こうした経緯をたどり、パレットタウンは潜在していた契約の問題もあって2022年に閉鎖された。 一方、パレットタウン併設の商業施設「ヴィーナスフォート」は建物が残されていた。それをイマーシブ・フォート東京が居抜きという形で進出。しかし、お台場の輝きを取り戻すことはできなかった。