【競技者引退から1年】宇野昌磨さんが気づいたこと「面白い質問って…」個別取材から
フィギュアスケート男子の元世界王者で、日本勢歴代最多3個の五輪(オリンピック)メダルを持つ宇野昌磨さん(27)の現役引退会見から、5月14日で丸1年を迎えました。
現在は1カ月後の6月14日から全国3カ所で開催する、自身初プロデュースのアイスショー「Ice Brave」の稽古を重ねています。プロスケーターとしての活動だけでなく、今季はフジテレビ系フィギュア中継のスペシャルアンバサダーなどでメディアの仕事も行ってきました。
現役時代に「話す側」が主だった宇野さんは「聞く側」となり、どういった感情を抱いたのか。2016年から取材する松本航記者(34)が尋ねました。
(写真はすべて撮影・森本幸一=2025年3月19日、名古屋市中村区のミッドランドスクエア)
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最初に内輪話を書きたい。
記者という仕事は、基本的に「聞く」時間が長い。
正確に表現すると、自分のことを話すより、相手のことを聞く割合が多い。
2016年12月、全日本選手権で初めて宇野さんを取材した。
会場は大阪の東和薬品ラクタブドーム。私は大阪本社で五輪競技全般を担当しており、会場に1社3人入れる記者の“3番手”だった。
「助っ人」のような立ち位置だったが、仕事の役割分担をへて、宇野さんの記事を書くことになった。
当時19歳になったばかりの青年は、ショートプログラム(SP)2位発進。フリーで192・36点とトップに立ち、逆転で初優勝を飾っていた。
ジャンプの種類さえ見分けられなかった、
当時25歳の記者は戸惑った。
紙面は2面。書ける行数が確保されている。
だが、取材の蓄積がない。
そんな状況下で、宇野さんは言った。
「練習が無駄じゃなかったことが、うれしかったです」
演技後の取材エリア。自分で質問をした記憶はない。
何を聞いたらいいかさえ、分からなかった。
宇野さんは最終盤の3回転サルコーに3回転トーループをつけたことを喜んでいた。
同時に泣いていた。
当時の記事を読み返してみると、こう書いてある。
疲れとの闘いを強いられる最終盤の3回転サルコー。着地した瞬間に聞こえた「行け!」。リンク際から叫ぶ樋口コーチの声で、続けざまに3回転トーループを付け加えた。きれいに決まった連続ジャンプ。単発でも優勝確実な状況で、あえて挑んだ。大会までの2週間取り組み続けたのが連続ジャンプだった。初優勝の実感でも、悔しさでもなく、1つの成功に泣いた。
8年半後の今、読んでみても違和感が全くない。
宇野さんが練習の成果を大切にする考えは、以降も一貫していた。
初めて取材の輪に加わった記者にも、泣いた理由がきちんと伝わっている。
男子フリーは午後9時45分終了。
全日本選手権は、いつも締め切りに追われる。
クリスマスイブの夜。
話す立場だった宇野さんは、一見の記者にも、限られた時間で真意を伝えていた。
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大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球、水泳などを担当。22年北京冬季五輪(フィギュアスケートやショートトラック)、23年ラグビーW杯フランス大会を取材。
身長は185センチ、体重は大学時代に届かなかった〝100キロの壁〟を突破。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。