KISS創設メンバー、エース・フレーリーが74歳で死去
ロックバンド、KISS(キッス)のオリジナル・ギタリストであり、“スペースマン”の異名で知られたエース・フレーリーが、10月17日(現地時間)にニュージャージー州モリスタウンで死去した。享年74。家族は「愛と祈りに包まれながら旅立った」との声明を発表し、「彼の笑い声と優しさを永遠に忘れない」と追悼した。死因は公表されていないが、9月末に軽い転倒事故を起こして入院し、その後の公演をキャンセルしていた。
ロックにすべてを捧げた少年時代
1951年、ニューヨーク・ブロンクスに生まれたフレーリーは、若い頃はスポーツと音楽のどちらに進むか迷っていた。しかしフットボールで手を痛めた経験から「俺の手はギターのためにある」と悟り、音楽の道へ。16歳で観たザ・フーとクリームのライブが決定的な転機となり、「劇的なロックに衝撃を受けた」と語っている。KISSとの出会いと栄光
1972年末、ヴィレッジ・ヴォイス紙の「フラッシュと実力あるリードギタリスト求む」という広告に応募したのが運命の始まりだった。母親の車でオーディション会場へ向かい、ジーン・シモンズ、ポール・スタンレー、ピーター・クリスと即興で演奏。「Deuce」を弾き始めた瞬間、メンバー全員が笑顔になったという。翌年にKISSが結成され、彼は銀と黒のメイクを施した“スペースマン”として世界を魅了する。奇抜なメイクと爆発的なステージ演出で話題を呼び、1975年のライブ盤『Alive!』が大ヒット。ギターの炸裂音と奔放なパフォーマンスで、若者たちのカリスマ的存在となった。作曲面でも「Cold Gin」「Parasite」「Shock Me」などの代表曲を手がけ、バンドの音楽的骨格を支えた。名声と破滅のはざまで
しかし成功の裏で、フレーリーはアルコールとドラッグに溺れていく。1970年代後半、名プロデューサーのボブ・エズリンと仕事をする頃には「スタジオにコカインが山のようにあった」と振り返っている。ソロ活動にも乗り出し、1978年に発表した『Ace Frehley』では「New York Groove」が大ヒット。4人同時に出したソロ作の中で最も売れた。だが、KISSの人気が子供向けに拡大するにつれ、彼は違和感を抱き始める。「ロックバンドだったのに、観客がランチボックスを持った子どもたちに変わってしまった」と吐露。メンバーとの確執も激化し、レコーディングではセッションギタリストが起用されることも増えた。最終的に1982年、巨額契約を放棄して脱退。「あのままいたら自殺していたかもしれない」と語っている。再結成と“最後のKISS”
80年代には自身のバンド「Frehley’s Comet」を結成し活動を続けたが、1995年のMTV『Unplugged』出演をきっかけにオリジナル・メンバー4人で再結成。翌年からのワールドツアーは大成功を収め、世界中のアリーナを再び満員にした。1998年のアルバム『Psycho Circus』では1曲のみの参加にとどまったが、「呼ばれなかっただけだ」と後年語っている。2002年のフェアウェルツアーを最後に再び脱退。彼の代役としてトミー・セイヤーが“スペースマン”のメイクを引き継いだことには不満を示し、「音は合ってるけど俺のスウィングがない」と評した。晩年と遺したもの
以降はソロ活動に専念し、世界各地で精力的にライブを行う。近年まで「Shock Me」「New York Groove」「Rock and Roll All Nite」などKISSの名曲を披露し続け、最後のステージは2025年9月、ロードアイランド州プロビデンスでの公演だった。2013年のRolling Stone誌のインタビューで彼はこう語っている。「俺の人生はジェットコースターみたいだったけど、いつだって立ち上がれた。ファンは常に俺を支えてくれたんだ。KISSのファン、そしてエース・フレーリーのファンは世界一だよ」破天荒でありながらユーモアと誠実さを併せ持ち、70年代ロックの象徴として輝き続けた“スペースマン”。彼のギターとそのスピリットは、今も無数のミュージシャンの胸の中で鳴り響いている。Translation by Rolling Stone Japan