昭和天皇の「言い訳」に反論 ひるまずいさめた初代宮内庁長官

昭和天皇=1988年4月撮影

 第二次世界大戦では、日本人だけで300万人以上が亡くなった。命をとりとめた国民にも広く被害が及んだ。「戦後81年」の今も苦しんでいる人がいる。

 破滅的な戦争を始め、敗戦が確実になってからも続けたのはなぜか。国家元首であった昭和天皇の責任を問う声は、敗戦後から今日に至るまで根強い。

 初代宮内庁長官の田島道治(1885~1968年)が、天皇との対話を記録した『昭和天皇拝謁記』(岩波書店全7巻)は、これまで知られていなかった天皇の肉声を伝える「超一級の史料」だ。戦争に関する発言も、多数記されている。同著から「昭和天皇にとっての戦争責任」を考察してゆく。

 連載「名著を探訪」は、戦争に関わる名作を読み解きます。今回は『昭和天皇拝謁記』の初回です(随時掲載) バックナンバーはこちらから

宮中改革を進める芦田首相に請われ

 『拝謁記』は初代宮内庁長官を務めた田島が記した、1949年2月3日から53年12月16日までの4年10カ月、計622回で全18冊、100万字以上に及ぶ膨大な記録だ。

 天皇と田島の一対一の対話が主で、田島の遺族が保管していた。2019年8月、NHKのスクープで存在が広く知られ、さらに岩波書店から関連資料も含めた全7巻が刊行された。

 昭和天皇の言動については、側近が残した日記など他の史料もあるが、『拝謁記』の量は群を抜いている。内容も、断片的にしか分かっていなかった時代の発言が詳細に記されている。

 国家観や国民観、歴史観、あるいは皇族の長としての苦悩など、外からはうかがい知れない天皇の肉声や思いも伝わってくる。

 田島は愛知県出身。10年に東京帝国大を卒業後、愛知銀行(後の東海銀行。合併され現在の三菱UFJ銀行)に入行し27年秋まで勤務した。さらに同年に起きた金融恐慌の後始末をするために作られた昭和銀行に移り、破綻した中小の銀行の債務処理などで活躍した。

 敗戦後の48年6月、芦田均首相に請われて宮内府長官に就任。田島と芦田はともに新渡戸稲造門下で、旧制一高・東京帝国大の先輩・後輩の関係だった。49年には宮内府の後継である宮内庁の初代長官となり、53年まで務めた。

 財界人として実績を上げてきた田島が宮廷組織のトップに就任するのは極めて異例だ。

 背景には、芦田の宮中改革があった。戦前の宮内省には6000人以上の職員がいたが、戦後改革に伴い半分以下の約1500人に減らされた。

 さらに皇族のうち、天皇家と秩父宮、高松宮、三笠宮の…

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