第16回:部下の目を信じる「スカウト推薦枠」~~伝説のスカウト木庭教伝(木村公一)

かつてのカープのスカウト会議より。右端が木庭。左中央は古葉竹識監督(当時)・写真・東京スポーツ

 オリックスへ移籍して間もない頃、木庭教は球団のスカウト会議で、他球団出身者であるがゆえの強烈な洗礼を浴びることになった。 ドラフト前の晩夏、木庭は自らが担当していた関東地区の無名高校生投手を、ドラフトの下位でいいから獲ってほしいとスカウト会議の席で申し出たのである。 前年秋の大会でその投手の投球を目にした木庭は、荒削りながらもプロで化ける可能性を感じ取っていた。しかし、翌年の夏の都大会では日程や巡回が噛み合わず、一度も実戦を見る機会を失ってしまっていた。

「広島流は困ります」――合議制の壁と拒絶

 その提案に対し、スカウト陣は猛反対した。

「木庭さん、ウチではそんな広島流のやり方は困りますよ」

 横浜大洋やオリックスといった球団では、上位候補はもちろん、下位指名であってもスカウト部長や複数スカウトによる入念な「クロスチェック」が絶対条件だった。前年の秋に一度見たきりで、直近の夏に誰も確認していない無名投手を下位とはいえ指名することなど、組織の常識からすれば到底あり得ない。

 仕方なく、木庭もその高校生の件は取り下げた。しかし、釈然としない思いが残った。スカウトが「とるに足りる原石だという。その言葉をなぜ信じ、評価しようとしてくれないのか」

 かつて木庭が率いた広島カープのスカウト部では、まったく逆の流儀が貫かれていた。 木庭が部下たちに与えていた「スカウト推薦枠」である。

少数精鋭のプライドと身内のライバル意識

 カープのスカウト陣は木庭を含めてわずか6名ほど。金がない球団ゆえの人員不足と世間からは言われたが、木庭自身も現場のスカウトたちも「少ないほうがいい」と胸を張っていた。 少人数だからこそ、一人ひとりの担当地区の責任は重く、そして独立した一国一城の主として動くことができる。 木庭と互いに認め合い、文字通り師弟でありながら激しいライバル関係でもあった渡辺秀武ら現場のスカウトたちには、凄まじい競争意識が宿っていた。

「他球団のスカウトも敵だが、身内のスカウトこそ最大のライバルじゃ。あいつより、あの人より、絶対にええ選手を獲ってやる」

 その健全なライバル意識が、互いの相乗効果を生み出していた。

「ワシが見ていなくても枠を空ける」

 そして木庭は、そうして全国を巡り歩き担当スカウトが「どうしてもコイツを獲りたいんです」と惚れ抜いて推薦してきた選手に対しては、たとえ木庭自身が1球、1打席すら見ていなくても、その担当の「眼」を信じて指名リストに枠を空けたのである。 他球団でも「スカウト上申枠」のようなものはあったが、責任者であるスカウト部長が見たこともない選手をそのまま指名リストに加えることなど、まずあり得なかった。それでも木庭は、スカウト枠を設け続けた。

「全責任はワシが取る」――トップが泥をかぶる覚悟

 なぜそんな危険な賭けができたのか。 理由は極めて明確だった。

「スカウト枠で獲った選手が、もしプロでモノにならんかったら、その全責任は部長であるワシが取る」

 木庭がトップとして、すべての泥をかぶる覚悟を決めていたからである。

 トップが全責任を負ってくれるからこそ、現場の地区担当スカウトは自らの眼力とプライドを賭け、極限の覚悟と責任感を持って選手を推薦することができたのだ。部下を信じ、自らを信じる。その信頼の連鎖こそが、赤ヘル黄金期を支えたスカウティングの根幹だった。

 だが、そうした職人同士の信頼と覚悟によって成り立つ流儀は、近代的な合議制と減点法で固められた他球団の組織では、決して受け入れられることはなかった。 会議室の空気に失望した木庭は、肩をすくめて小さくため息をつくしかなかった。

 組織の安全を最優先にし、誰も責任を取らないシステムの中で、一体どんな骨のある選手が育つというのか。 古巣・広島で培ったスカウトの魂は、時代の波の中で、しだいに居場所を狭められていっていたのである。《敬称略》第17回に続く。

スポーツライター・作家

獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。

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