「ささやき女将の記者会見」で全てを失った…船場吉兆の"次男坊"が「6畳のワンルーム」から起こした復活劇 職なし、カネなし、家族なし…包丁を捨てなかった料理人の知られざる18年
女将の“ささやき”を繰り返す長男の姿が世間を騒がせた老舗料亭「船場吉兆」の謝罪会見。だがその裏で、すべてを失いながらも、再び包丁を握った次男がいた。老舗料亭の三代目がたどった泥だらけの復活劇を、ライターの宮﨑まきこさんが描く――。
筆者撮影
「日本料理 湯木」を営む湯木尚二さん
『頭が真っ白になったと……真っ白になったと……』
女将のささやき声を、マイクが拾う。すると、うつむいたままの長男が、女将の言葉のとおりに続けた。
「初めての記者会見でして、頭が真っ白になったと……」
時折目を泳がせながらも、言葉の合間に唇をかみしめている長男を、攻撃的なカメラのフラッシュがたて続けに襲う。小さく丸めた上半身が、背後の白いカーテンに焼きつけられてしまいそうだ。
「船場吉兆」(吉は土かんむり)は、料理研究家として文化功労賞を受賞した湯木貞一氏を祖とする。著名人のひいき客も多い大阪の高級料亭が引き起こした食品偽装事件は、当時多くの人の耳目を引いた。
2007年12月10日、不正発覚を受け「船場吉兆」が謝罪会見を行った。出席したのは取締役の湯木佐知子氏、長男で取締役の喜久郎氏と、弁護士2人。これが、のちに平成の迷会見として語り継がれる「船場吉兆ささやき女将会見」だ。
地面が突然崩れていくような恐怖
湯木貞一氏の三女である佐知子氏が、答えに窮する長男にささやく様子がまるで腹話術のようだと揶揄され、当時のワイドショーや週刊誌をにぎわした。船場吉兆の起こした事件は忘れても、この会見だけは覚えている、という人も多いだろう。
世間の批判と嘲笑の裏で、湯木家は大きく揺れていた。当時の船場吉兆内部の様子を、次男の湯木尚二さんは語る。
「会見の後、兄は母に激怒していました。『なんであんなこと言ったんや! 大失敗だったじゃないか!』と。代表だった父は、『なんでちゃんと管理しておかなかったんや!』と、兄や私を怒鳴りつけました。……あのときの素直な感情は、『恐怖』でしたね」
これまで踏みしめていた地面が、突然崩れていくような恐怖。
翌年、船場吉兆は自己破産を申請し、料亭としての歴史に幕を下ろす。父、母そして長男が失意のまま料理界を去っていくなか、尚二さんだけが、踏みとどまった。
「老舗料亭の三代目」だった男は、当時39歳。「船場吉兆」の肩書きを失い、財産もギリギリまで賠償にあてた。職なし、カネなし、家族なし。6畳のワンルームから、尚二さんの復活劇は幕を開ける――。
写真提供=湯木さん
大阪市北区にある「日本料理 湯木 新店」の外観
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2004年に船場吉兆天神店を開店し、岩田屋本館「吉兆天神フードパーク」では、船場吉兆ブランドのお弁当・惣菜・洋菓子等を販売。店や商品が雑誌やテレビで取り上げられることも増え、尚二さんは福岡でテレビの料理コーナーを受け持った。
「あの頃はとにかく、なんとかこっち(福岡)を成功させようと必死でしたね。九州の拠点として、この店を繁盛店にしなければならない。来るもの拒まず、どんな仕事でも受けていました」
料亭として頂点を極めた「九州・沖縄サミット」
そして船場吉兆にとって、大きな出来事が訪れる。2000年に開催された九州・沖縄サミット(主要国首脳会議)で、蔵相会合の晩餐会を任されたのだ。
「ちょうど七夕の次の日でしたので、七夕飾り風にアレンジした装飾を用意して、そこにお料理を盛り込みました。うに、フォアグラ、キャビアなど、欧米の方に喜んでいただける珍味で飾って、汁物はハマグリのお吸い物。父と私はご要人の方々の前で、天ぷらを揚げてお出ししました」
当時の大蔵大臣・宮澤喜一、アメリカ財務長官のローレンス・サマーズなどの政府要人に、国の威信をかけて豪華絢爛な料理を振る舞う。まさにこのとき、船場吉兆は絶頂期を迎えていた。
写真提供=湯木さん
船場吉兆時代の湯木さん
しかし、急激に膨らみすぎた船場吉兆は、既に湯木一族の手の内には収まらなくなっていた。意思を持った生き物のように、ミシミシと不気味な音を立てて肥大化していく。そしてある日とうとう、一本の亀裂が入った。当初はほんの小さな亀裂だと思っていた。多少目立つが、モルタルで上塗りすれば見えなくなる程度のものだと――。
食品偽装発覚、崩れ行く船場吉兆
2000年代前半は、大手企業の食品偽装が相次いで発覚した時代だった。2001年には牛肉偽装で雪印食品と日本ハムが廃業や社長辞任に追い込まれ、2007年にはミートホープの悪質な偽装が発覚し、社長が実刑判決を受けて会社は倒産。その他、白い恋人や赤福などで、次々と賞味期限の偽装が発覚した。
当時それらの事件を、尚二さんはどんな思いで見ていたのか。
「そのときは、完全に他人事でしたね。『あんな有名な企業が、なんであんなことをすんのやろ』と。それが、まさか自分たちの店にも起こっていたなんて……」
最初に発覚したのは、福岡の百貨店で販売していた洋菓子類の賞味期限改ざんだった。ある日尚二さんは大阪で、百貨店の売り場の従業員から「保健所が調査に来ているが、どうしたらいいか」との電話を受ける。
「そのときは、『もしミスがあったならちゃんと説明しなさい』と指示をしたんです」
当初、家族内に動揺はなかった。起きてしまったことは素直に謝罪し、改善策を考えればいいと。
しかし、そう簡単な問題ではなかった。
「ふたを開けてみたら賞味期限の改ざんが、何種類もの商品を対象に長期にわたって繰り返されていたことがわかったんです。そこで初めて、ことの重大性に気づきました」
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「吉兆の次男坊」「高級料亭のボンボン」……。このような湯木尚二さんに対する世間の印象は、あながち間違ってはいないだろう。「朝ごはんは吉兆の松花堂弁当だった」と語る彼の育った環境は、さすがに一般的とはいいがたい。
しかし、彼の幼少期はもう少し複雑だ。
尚二さんは、年の離れた兄とともに家政婦に育てられた。両親は料亭内の座敷で寝泊りしており、会えるのは週に一度。家族でどこかに遊びに行った記憶もなく、両親との距離は遠かった。
写真提供=湯木さん
父・正徳さん(右)と母・佐知子さん(左)。中央の女性に抱っこされているのが幼いころの湯木さん
写真提供=湯木さん
幼いころの湯木さんと母・佐知子さん
7歳のときに家政婦が病気で引退し、尚二さんは料亭に居を移すことになる。両親と共に暮らせる喜びよりも、母親代わりの家政婦と離れる悲しみが、幼心に深く刻まれた。
「一緒に暮らし始めたといっても、父も母もお客さん対応に飛び回っていますから、私にかまう暇なんてありません。学校から帰ると裏の空き地で壁を相手にキャッチボールしたり、四畳半の母の支度部屋で宿題をしたりしていました。寂しさはありません。子ども心に、『そういうものだ』とわかっていたんでしょう」
船場吉兆で働き始めたのは高校1年生のときだった。アルバイトとして、最初の1年間は玄関で客の迎え入れと見送り、次の1年間は皿洗い、3年生になったとき、ようやく厨房に入ることを許された。
「他の将来を夢見たことはありません」
祖父・湯木貞一氏は、料亭「吉兆」を5人の子どもにのれん分けした。以来、息子・娘はそれぞれ独立して「吉兆」を冠した料亭を営んでいる。貞一氏の三女である佐知子氏は「吉兆船場店」を譲受け、板前だった夫・正徳氏と共に経営していた。
貞一氏の孫は10人。当時、尚二さんより年上の男孫6人全員が、「吉兆の中の人」になっていた。決して後を継げと言われたわけではない。しかし、吉兆以外の将来を考える余地は残されていなかった。
「他の将来を夢見たことはありません。……ただ、大学4年生になると、友人たちが、みんなスーツで就活を始めるでしょう。それを見て、なんだか取り残されたような気持ちになりましたね」
生まれたときから将来が決まっている自分とは対照的に、無限の可能性を秘めた友人たち。その後姿を見送りながら、1992年、尚二さんは料亭「吉兆」に入社する。
写真提供=湯木さん
老舗日本料理店「吉兆」の創業者の祖父・貞一さん(右)と
26歳で店長を任される
当時の船場吉兆は拡大路線をとっていた。1995年、バブルが弾けてもまだ深刻な影響は出ていなかった時代。最初の支店は、ショッピングモール「心斎橋OPA」内に設けられ、尚二さんは26歳で父から店長に指名された。
1999年には福岡に支店を開店する。福岡は父・正徳氏の故郷。吉兆に婿入りし、大阪に根を下ろしてからも、いつかは故郷に錦をと願っていたのだ。
心斎橋OPA店を成功させた尚二さんは、並行して福岡店も任されることとなり、大阪と福岡を行き来する忙しい生活が始まった。
「福岡に出店すると決まったときは、正直不安でした。大阪と違って福岡は自分にとって未知の土地です。『湯木』の名前も通らず、顔も効かない場所ですから。しかし船場吉兆内で父の言葉は絶対。逆らうことなど考えられませんでした」
そしてここから、船場吉兆の黄金時代が幕を開ける。
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やがて捜査の手は大阪の本店にまで及んだ。2007年11月16日、不正競争防止法違反(品質虚偽表示)の疑いで料亭に警察の強制調査が入り、ここでも牛肉や鶏肉の産地偽装が行われていたことが明らかになった。
事件を受け、2007年12月に船場吉兆は例の謝罪会見を開く。すると「ささやき女将」の強烈なインパクトに、世間の目は一気に母・佐知子氏に集中した。世間からの壮絶なバッシングと嘲笑。テレビや新聞だけでなく週刊誌までが動き出し、自宅に突撃されたり、待ち伏せを受けたりする日々が続いた。
写真=時事通信フォト
記者会見を終え再度深々と頭を下げる船場吉兆の湯木佐知子取締役(中央)と喜久郎取締役(左)(京都市内のホテル、肩書はいずれも当時)=2007年12月10日
「事業が拡大し、一つひとつの現場に目が届かなくなっていたのが原因でした。なぜちゃんと監督していなかったのかと父は怒鳴り、家族内も感情的になっていきました」
2008年、船場吉兆は佐知子氏を代表に残し、再生手続きに入った。しかし一度失った信頼と客足は戻らず、再生計画は頓挫し、破産手続きに移行する。父母も連帯保証人として自己破産し、兄と尚二さんは破産だけは免れるも、財産のほとんどを賠償にあてることになる。
当時父は74歳、母は70歳、兄も40代半ばを過ぎ、人生の後半ですべてを失った。
写真提供=湯木さん
船場吉兆の正面玄関
写真提供=湯木さん
船場吉兆の大広間
金なし・職なし、6畳のワンルームアパート
尚二さんもまた、社宅として借りていたマンションを追われた。しかし、引っ越し先を見つけることすらままならなかった。「船場吉兆の息子」では、大阪市内どこに行っても賃貸契約さえ結べないのだ。
知り合いの助けを借りて、ようやく小さなアパートに落ち着いた。由緒正しき老舗料亭の三代目は、6畳のワンルームに住む、無職・独身のアラフォー男性となった。
「事件発覚当初は、こんなに大事になると思わなかったので、早く仕事に戻りたい一心でした。しかし時間が経つにつれて、だんだんそれが不可能だとわかり始めたんですね。ならばどうやってこれからの人生を立て直そうかと考え始めました」
約20年前、大学の卒業式で見送った友人たちと同じ、「無限の可能性を秘めた未来」が、皮肉にも40手前で手に入った。
振り返ればその日まで、料理に関する仕事しかしてこなかった。吉兆以外で働いたこともない。逆に料理と料亭の経営方法だけは、誰にも負けない経験値がある。40歳を前に、別の道に進むことは考えられなかった。
求人誌で見つけた飲食店のアルバイトに入ったこともある。しかしすぐに船場吉兆の息子だと顔を指され、マスコミにかぎつけられた。店に迷惑はかけられないと、短期で店を辞めた。
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「『湯木』の人間が、そない成り下がる必要が、どこにあるんや!」
難波の店で小料理店を始めることを告げると、父も母も眉をひそめて反対したという。
「成り下がり」――。
かつて船場吉兆があった「船場」は、大阪でも経済の中心地。「ええしの町」、つまり歴史ある大店が居並ぶ上流階級の町という印象がある。一方当時の「裏難波」は歓楽街で、夜の一人歩きをためらうような雰囲気が残っていた。
70まで「ええしの町」で商売を続けていた両親にとって、「湯木」の人間がそんないかがわしい町で小さな店を開くなど、「成り下がり」以外の何でもなかったのだろう。
しかし、背中を押してくれる人もいた。
筆者撮影
インタビューで当時を振り返る
「湯木さん、いつかあんたが自伝を書くとしたら、ここは『吉兆のボンボン』の再スタートにぴったりの場所ちゃうか」
そう言って励ましてくれたのは、事件直後から尚二さんを支え続けた、お好み焼き千房の会長中井正嗣さんだった。
尚二さんの復活を信じ、待ち続けていた人もいた。
「いつかまた使う日が来るのを待っていた。やっぱりこの器には、あんたの料理が一番映えるんや」
食器店の主人は、船場吉兆が破産した際、財産として没収され、オークションに出された器の一部を落札し、大事に保管してくれていた。
家賃9万円、6坪の店を開く
真っ白な割烹着を着ていた老舗料亭の三代目は、無職になり、人生の底に足がついた。ここからは服の汚れなど気にしてはいられない。壁に爪を立ててでも、よじ登っていくしかない。祖父である湯木貞一も、小さな料理店「御鯛茶処 吉兆」から、一代で「吉兆グループ」を確立していったのだから。
広さ6坪、家賃は9万円。カウンター席7席、テーブル席1つの「日本料理南地ゆきや」が、成り下がった「湯木尚二」の再スタートの地となった。
コンサル業で顔をつないだ相手に地道に営業を続けた甲斐もあり、店は初月で180万円の売り上げを達成。開店から1年経つ頃には船場吉兆時代の常連客でにぎわうようになり、店は手狭になっていった。
「個室があったら、商談にも使いやすいのになあ」 「夜はこの辺怖いから、友達を誘いづらいねん」
「この店、空調が利かな過ぎて暑いわ」
顧客の要望を受け、尚二さんは移転を決意する。移転先は「北新地」。大阪の銀座と呼ばれる高級飲食店街だ。2011年11月21日、北新地に「日本料理湯木」1店舗目を開店した。
写真提供=湯木さん
「日本料理 湯木 本店」の外観
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自力で商売をしようと、大相撲大阪場所で佃煮の卸販売をしたこともある。原価200円の佃煮を300円で販売したが、「高すぎる」と言われ250円に値引きさせられた。ワンルームの狭い部屋で300個の佃煮をていねいに包装し、難波にある大阪府立体育会館まで届けた。
「うまくいかないんですよ、何をやっても。昔は『吉兆』のブランド力があり、バックヤードや舞台もそろっていたので、思ったことは大体形になりました。しかし、看板やブランドを失えば、こんなもんです。逆に、『船場吉兆の息子』というレッテルはいつまでもはがれなかった。生きていくには、料理の道しかなかったんです」
筆者撮影
メニューを考える湯木さん
尚二さんは、外食業専門のコンサル会社を立ち上げた。社長も社員も尚二さんひとり。恥もプライドも捨てて、『船場吉兆』時代のつてを頼って挨拶回りをしていった。事件をきっかけに離れていく人もいれば、手を差し伸べてくれる人もいる。ひと月経ったころには、小さな仕事がぽつぽつと入り始めた。
「皆さん、私をなんとか引っ張り上げてやろうという思いだったのでしょう。だからこそ、できることを一生懸命やりました」
意外だったのは、当時の知り合いの多くが、尚二さんを好意的に受け入れてくれたことだった。
「情けない話ですが、あの『ささやき女将会見』のお陰で、私らのことを微笑ましく見てくれる人が多かったんです。命を取られへんかったから、まだ生きるチャンスがあると思えました」
もはや「吉兆の三代目」は通じない。泥臭く汗をかき、頭を下げる日々が2年ほど続いたある日、尚二さんに転機が訪れる。
運命の再会
ある日、知り合いの不動産会社から一本の電話を受けた。
「大阪の難波でお寿司屋さんが閉店するんやけど、湯木さん、誰か居抜きで継いでくれる人知らへん?」
飲食店のコンサルとして少しずつ顔を広めつつあった尚二さんに、誰か紹介してくれないかという相談だった。
「1週間くらい人に当たってみたんですが、該当者は見つかりませんでした。そこでとりあえず、不動産屋の知人と一緒にそのお寿司屋さんへ行ってみることにしたんです。そしたらなんと、その寿司屋の大将が古い知り合いやったんです」
寿司を握っていたのは、船場吉兆が健在だった頃、行きつけのワインバーでソムリエをしていた「西さん」だった。
――湯木さんがうらやましいです。僕本当はね、ずーっと飲食店をやりたかったんですわ。いつか、寿司屋でもやりたいなあって思ってるんですよ――
ソムリエだった西さんは、寿司職人になっていた。数年間店を続けたのち、「もう十分夢は叶った。今後は孫の面倒を見ながらゆっくり暮らしたい」と、店を居抜きで使ってくれる人を探していたのだ。そして西さんの一言が、尚二さんを「料理人」に引き戻すことになる。
「ここで飲食店やりませんか?湯木さんやったら、安く譲りまっせ」
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料亭のお座敷でのインタビューは2時間以上に及んだが、背広姿の尚二さんは、しっかりと背筋を伸ばし、真摯に答えてくれた。彼は現在日本料理店4店舗、食品販売店1店舗、合計5店舗を経営している。
今後、この店で船場吉兆を目指すのかと聞くと、尚二さんは考え込んだ。
「思いはあります。しかし、この店を船場吉兆のような料亭にするのは、無理ですわ。失ったものが計り知れませんから。『吉兆』を名乗るために必要な多くのものを、私は失ってしまいました」
確かに、船場吉兆は失われ、もう戻らない。では、尚二さんが得たものはなんだろう。それは、失ったものに匹敵する何かだろうか。先ほどから育ちの良さの陰に見え隠れしている、負けん気の強さを見てみたくなって聞いてみた。
「尚二さんにとって、船場吉兆の事件はあってよかったんじゃないですか?」
一瞬ののち、「由緒正しき料亭の三代目」の顔が崩れた。
「……何をおっしゃるんですか⁉ そんなん、あるわけないやないですか! 勘弁してくださいよ~」
大きくのけぞった拍子に、正座していた足が崩れた。しかし、手で胸を押さえ、急激に上がった息を整えていくうちに、尚二さんの目に強い光が戻っていく。
「確かに、そうですねえ……。あの事件がなかったら、おもしろ味に欠けた人生になっていたかもしれませんね」
老舗のプライドもブランド力も、働く場所すら失っても、両親や兄のように料理界から目を逸らさなかったのは、この負けん気の強さと商魂があったからかもしれない。
筆者撮影
一度はすべてを失った。それでも包丁は手放さなかった
やはり気になる「ささやき女将」の現在
最後に、誰もが気になる「ささやき女将」、佐知子さんのいまについて聞いてみた。2019年に夫を亡くしたが、88歳になる現在でも病気もなく健康で、一人暮らしをしているのだという。
ささやき女将・佐知子さんとはどんな人かと聞いてみると、尚二さんは言いにくそうに「まあ……甘えん坊ですわ」と苦笑いを浮かべた。
「今は耳が遠くなって、もうささやくことはできませんが、気の強さは健在です。この間、ちょっと怪我して入院したんですが、入院すると身の回りのことをみんなやってもらえるでしょう? それが楽で、病院に居ついちゃって。病院の先生から、はよ帰ってくれって私のところに連絡が来ましてね、慌てて連れて帰ってきたんですわ」
佐知子さんは、筋金入りのお嬢様であり、最盛期の船場吉兆を切り盛りした敏腕女将でもある。かくしゃくとした小柄な母に、あれやこれやと振り回される尚二さんが目に浮かび、口元がほころんだ。これじゃ将来老老介護ですわ、と苦笑いする尚二さんはいま、数十年を経て、母・佐知子さんとの当たり前の親子関係を取り戻している。
写真提供=湯木さん
「ささやき女将」と呼ばれた佐知子さんと湯木さんの現在