1817年に正体不明の病気で死去、今や「文学史上最大級の謎」に<下> 歴史上の人物を診断する
英作家ジェーン・オースティンは1817年7月18日、正体不明の病気で亡くなった/Photo Illustration by Alberto Mier/CNN/Universal History Archive/Getty Images; Gillian Pullinger/Alamy Stock Photo; Will Dax/Solent News/Shutterstock
(CNN) ジェーン・オースティンに関する医療文書は直接の証拠としては残っていないが、当時はそうした記録が作成されていたはずだ――。オースティンの病気の解明を試みている医師、エリザベス・グレアム氏はそうみる。
グレアム氏は正式な死亡証明書の存在を把握していない。オースティンが受けた治療についても、書簡に「処置」という言及があるだけで、それ以上に具体的なことは分からないという。このため、当時の医者がオースティンの病気の原因や死因をどう考えていたかは、答えが出ないままだ。
グレアム氏は「オースティンの死因については誰も触れていない」「カサンドラも死因には言及していない。眠りについたという証言が残っているだけだ」と語った。
もう1人の医師マイケル・サンダーズ氏とグレアム氏がオースティンの症状を検証したところ、アジソン病や結核、リンパ腫の直接の証拠は見つからなかった。アジソン病では、全身の皮膚に日焼けのような恒久的な変色が起きる。しかしオースティンの場合、さまざまな色の発疹が出たのは顔に限られ、いずれも一過性だったと両氏は論文で指摘している。
17世紀から18世紀、19世紀にかけての欧州で結核が死因の少なくとも2割を占めていたことを考えると、オースティンを診た医師たちは結核の診断には手慣れていた可能性が高い、とグレアム氏は言う。オースティンは結核の典型症状である胸痛や整形外科的な不調を抱えていたわけでもなさそうだ。
リンパ腫も可能性が低いとみられる。両氏は論文で理由として、リンパ節が腫れていたとの記述がない点などを指摘している。
サンダーズ氏とグレアム氏が繰り返し言及しているのは、オースティンが最も頻繁に訴えた症状が関節痛だった点、そして自然に症状が軽快する時期が複数あった点だ。リンパ腫の患者であれば、治療を受けない限り軽快は起こりにくいが、当時はまだリンパ腫という病気自体が発見されておらず、治療法も存在しなかった。
グレアム氏は「発疹が表れたこと、1年で死に至る病気だったことに引きずられるあまり、人々はオースティンが関節痛を患っていた事実を織り込めていなかったのだと思う」「オースティンの病気には浮き沈みがあり、高熱や皮膚の発疹が出たかと思えば、時には本当に体調が良くなることもあった。リンパ腫なら良くなることはなかっただろう」
グレアム氏とサンダーズ氏は2人とも、聖トーマス病院に欧州初のループス(全身性エリテマトーデス)外来を開設したリウマチ専門医グレアム・ヒューズ医師と長年一緒に働き、ループスの症状に精通していた。ヒューズ氏は今回の研究を掲載した学術誌「ループス」の創刊者で編集長でもある。
サンダーズ氏とグレアム氏は仮説として、オースティンが全身性エリテマトーデスを患っていたとの説を立てた。全身性エリテマトーデスは関節炎や顔の皮膚の異常、発熱、疲労との関連がしばしば指摘される自己免疫疾患で、初めて記録されたのはオースティンの死から10年あまり後だった。若い女性が発症するケースが多く、30~40代では死に至る場合もある。研究によると、全身性エリテマトーデスの患者は症状が悪化する「フレア」も経験する。現代の治療の力を借りれば症状の管理も可能だが、患者によって個人差が大きく、さまざまな臓器や器官系に影響が出る。
サンダーズ氏とグレアム氏はさらに、オースティンの毛髪サンプルを調べることができないか検討した。ジェーン・オースティンズハウス博物館にはオースティンがめいのファニー・ナイトに遺した毛髪の束が展示されていて、オースティンとの関係が指摘される別の毛髪サンプル2点も所蔵されている。
最終的に、サンダーズ氏とグレアム氏はサンプルの提供を求めないことに決めた。
グレアム氏は「毛包が残されていない状態では、DNA検査を行っても通常は成果に乏しい」「ループス説を支持するような遺伝子型だったかは分かるだろうが、オースティンがループスを患っていたかどうかまでは分からない」
これまで、オースティンの毛髪サンプルの検査は限定的にしか行われてこなかった。1972年には電子顕微鏡による調査が行われたが、これはジェーン・オースティン協会が毛髪の劣化の兆候を懸念したためだ。光への暴露を原因とする脱色の証拠が見られ、一部の髪の毛は淡い麦わら色を示していたものの、裏側は茶色だった。
サンプルの大半を手つかずのままにしておきたいというジェーン・オースティン協会の意向を踏まえ、1972年の研究の著者が利用できた毛髪は数本だけだった。分析の結果、晩年のオースティンは髪のケアをほとんどせず、ブラッシングや櫛などによる手入れは最小限だったとの結論が導き出された。
近年では毛髪サンプルの分析により、作曲家のベートーベンなど、他の歴史上の人物の健康状態や死に関して洞察が得られている。
ベートーベンは1827年3月26日の死去前、自らの病が研究されて共有され、「私の死後、世界と私の間で少なくとも可能な限り和解が生まれて」ほしいとの願いを表明した。残された髪の束のDNAを調べた科学者は2023年、ベートーベンが肝臓病の顕著な遺伝的リスク因子を持ち、死去前にB型肝炎を患っていたとの研究結果を発表。ベートーベンのゲノムは一般公開され、24年の研究では鉛中毒を経験していたこと、ヒ素と水銀の濃度も高かったことが明らかになった。
23年のゲノム分析と24年の研究の共著者を務めたベートーベン学者、ウィリアム・メレディス氏は「ベートーベンのゲノムを調べたチームは幸運だった。調査の結果、死につながった三つの重要な要因が判明したのだから」「オースティンのケースのように物的証拠がない場合、書簡や症状の描写をもとにどれだけ優れた分析を行ったところで、推測の域を出ない」と指摘する。
ただし今のところ、オースティンの毛髪サンプルを分析する研究プロジェクトは存在せず、今後実施される予定もない。
ジェーン・オースティンズハウス博物館の責任者を務めるリジー・ダンフォード氏によると、オースティンのものとされる同館所蔵の毛髪3点はいずれも、既に調査が済んでいる。英サリー大が15年に行ったサンプルの検査では、3点のうち2点が汚染されていることが判明。金属製ペンダントに保管されていたために汚染された可能性が高い。残る1点では大半の元素が通常のレベルで検出されたという。
ダンフォード氏は「この研究結果を踏まえると、仮に毛髪サンプルの追加分析を行ったとしても、オースティンの死因をめぐる疑問は解消しないと考えられる。文学史上最大級の謎にとどまる他ないかもしれない」と語った。
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オースティンの不可解な病気を巡る議論は研究者の間で続いており、リンパ腫説に傾く人もいれば、近年のループス説を支持する人もいる。本人の言葉からオースティンを診断するのが難しい一因には、現代の医師も苦労する古くからの問題がある。
米フォートフッドを拠点とする内科医ボイス氏は、「きちんと仕事をしようとすれば、医師は翻訳者の役割になる」と指摘。「患者は発疹が黒だ白だと言うが、実際はただのあざかもしれないし、本人の表現とは全く違うこともある。オースティンは非常に正確な書き手だが、彼女の描写が200年後の医師のアプローチと全く同じなどということがあり得るだろうか」と問いかけた。
この記事の取材に応じた全員の認識が一致した点がひとつある。オースティンの死因は今後も、謎にとどまる可能性が高いということだ。
ウィンチェスター・カレッジの図書館員でコレクションの管理を担当するリチャード・フォスター氏は、「最終判断を下すには明らかに情報が足りない」と指摘する。
それでもオースティンの病を分析する試みは、作家の人生と文学への新しい窓を開く。健康はオースティンの晩年の作品の前面にあるテーマで、「説得」では病やけがが目立ち、「サンディトン」では治療方法の探求が描かれる。自身もジェーナイト(オースティンの熱心なファン)のボイス氏は20年、北米ジェーン・オースティン協会の学術誌「パースエージョンズ」で、オースティンの後期作品に見られる医療のテーマを掘り下げた。
ボイス氏の見方では、こうした後期作品は、病気を患っていたオースティン本人が同時代の病をどう見ていたかを示す。
ボイス氏は「医師として言えば、治癒を求める人々が何に目を向けるのか分かり、本当に興味深い」と語った。
ボイス氏によると、オースティンの時代、人々は当時まだ名前がなかった病気の治療法を求め、海の空気を吸いに海水浴に行ったり、鉱泉保養地に足繁く通ったりするのが流行していたという。
病への言及はオースティンの小説のそこかしこに見られる。登場人物は神経の不調や頭痛、発熱を抱え、「エマ」の主人公の父ウッドハウス氏のケースのように、健康不安から心気症に至るケースすらある。初期作品のプロットは必ずと言っていいほど前向きな結末を迎え、作品にある種の軽やかさを与えているが、後期作品ではそれが顕著に変化する。
オースティンをテーマに博士論文を書いたミネソタ大生命倫理センターのジェイミー・コナーマンシーズ助教(臨床倫理学)は「『説得』に向かうにつれ、書き方が変化し始める。ハッピーエンディングの幸福さは少し薄れ、人生への疑念がやや深まっていく」と指摘する。
オースティンが「サンディトン」を書き始めたのは1817年1月、体調が一時的に回復した時だったが、その年の3月には再び筆を置かざるを得なかった。この小説は病気がちな英国人を呼び込もうとする架空の海辺の保養地を風刺的に描いたもので、未完に終わった。
アリゾナ州立大のローサー氏によると、オースティンは17年初めの時点では死に向かっていることを自覚していなかった可能性が高いものの、「サンディトン」の冷静で辛らつな語り口には、しぶとさが見て取れる。
「多くの人は自己憐憫(れんびん)と痛みの中で、自分のうちに引きこもりたい誘惑に駆られるだろう」「オースティンはある意味、自身の状態を笑いの種にするようにして、滑稽(こっけい)味あふれる登場人物を描くことができた。驚くべきことだ」(ローサー氏)
フォスター氏はこの夏、数週間かけてカレッジストリート8番地に来訪者を迎える準備をした際、オースティンの死の間際の手紙を通読してみて、「明らかに相当ひどい状況にありながら」陽気さと明るさを失わない筆致に心を打たれたという。
「これはある意味、オースティンにとって最も大切なのは家族との関係だったという説を補強するものだと思う」「亡くなった時、彼女は愛する人と一緒にいた。別れを告げる機会に恵まれた、という感じがする」(フォスター氏)
痛みや時間を越えてつながる力は、いまでも共感を呼ぶ。「多くの人にとってオースティンは単に楽しむ作家、敬愛する作家という以上の存在なのだと思う」とフォスター氏。「むしろある種、人生の伴侶のようなものだ」