ハンタウイルス感染症で揺らぐ今、コロナ禍の全体主義的社会を考える 対談・國部克彦×新田剛
新型コロナの緊急事態から日常を取り戻して3年。しかし、感染症のパンデミックのもと行われた政策や人々の行動心理についての検証は今なお、ほぼ皆無だ。新しい感染症が騒がれる今、コロナ禍における現代社会の権力構造や倫理的課題を、二人の専門家の対談で掘り下げる。
新型コロナウイルスが、感染症法の分類で2類から5類へと移行したのは、2023年5月のことだった。パンデミックの緊急事態を経て、「ウィズコロナ」の新たな日常へと舵(かじ)を切ってから3年。今、クルーズ船「MVホンディウス」で発生したハンタウイルスの集団感染が、世間を賑(にぎ)わせている。乗客3人が死亡、さらに数人が治療のため船外へと医療搬送された。ハンタウイルスは、ネズミなどのげっ歯類が保有するウイルスであり、その尿や糞(ふん)、唾液に触れたり、それらが乾いて舞い上がったほこりを吸い込むことで感染する。重症化すれば、呼吸器や腎臓の機能不全を起こす可能性もある。しかし人から人への感染率は低く、一般市民にとってのリスクはほとんどないとされている。
感染症の時代とも言われる21世紀。それゆえ、我々が経験したコロナ禍とはどのような日々だったのかを検証することは重要だ。人々は外出制限を余儀なくされ、そして未知なるウイルスに対抗する手段として新型コロナワクチン接種が推奨された。それは一体、どんな政策のもと行われたのか。人々の心理は感染症というパンデミック下で、どのように働いたのか。
ドイツ出身のユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントは全体主義の根源についてこう語る。「政府の政策に対する疑問や検証がされることなく、国民が思考停止して指示に従うだけの態度が広がれば、権力の暴走を簡単に許してしまう状況をつくることになる」
その過ちの深淵(しんえん)を覗(のぞ)かないためにも何より肝要なのは、開かれた、きわめて透明な議論である。
神戸大大学院経営学研究科教授・國部克彦氏と、免疫学の専門家・新田剛氏が、コロナ禍を通して現代社会の権力構造や倫理的課題を深く掘り下げた「サンデー毎日デジタル」での対談は、我々が、自由と尊厳を守るためには何が必要か、に迫る。その言葉と思考を、誌面でもお届けする。
※
新田剛 新型コロナウイルスとは本来、風邪の一種です。確かに、高齢者や肥満の男性は肺炎になると重症化して亡くなりやすいという特徴があった。その一方で、若者や子どもはたとえ感染しても無症状の場合もある。そういう新しいタイプの風邪だったわけです。感染力が強く、一部の患者が重症化しやすい風邪は過去にも存在しましたし、学者の間でも「季節性インフルエンザと同程度であり、コロナはそこまで怖くないのではないか」「これほど徹底した感染症対策や経済活動を止めるほどの社会的制約が果たして本当に必要なのか」という議論は、新型コロナが流行し始めた20年3月ごろからあったのです。
同様に、新型コロナワクチンについても懐疑的な声が上がっていました。風邪というのは、人生の中で繰り返し、何度でもかかるものです。天然痘や麻疹(はしか)のように、一度感染すれば長期の免疫が得られるわけではない。そういうウイルスに対して、開発期間わずか10カ月で実用化されたmRNAという新しいワクチンがどこまで有効なのか、と。
◇すべての異論を排除した社会
國部克彦 新型コロナというのは実際、どれほどリスクがあるのか。本当に緊急事態宣言を出すほどのものなのか。こういった議論は本来、最も重要なことだったはずですが、それが十分に行われずに、「少しでも危険があれば死ぬ」という感覚だけがどんどん膨らんでいった。社会が、自分たちに都合のいい科学的知見だけを取り入れて、物事を進めてしまったんですね。科学的な真理と社会的な正しさは別物で、その間をつなぐ仕組みがうまく機能していればよかったのですが、実際にはそうならなかった。
新田 そのうえ科学者の間の自由な議論も21年にワクチン接種が始まり、やがて2回目、3回目と接種が進むにつれて、なぜか行われなくなっていったのです。22年夏の免疫学会のイベントに、私は講師として呼ばれました。それは大変に名誉なことではありましたが、私がワクチンを接種していないことで議論になり、結果的には辞退しました。「免疫学会はワクチンを勧める活動をしているので、それを妨げるような人は困る」と言われたのです。
また若者への接種を推進する免疫学会の広報活動に対して、私は「副反応のリスクもあり、たとえ打っても感染を止める効果がないことが判明しつつあるワクチンを若者に勧めるのはどうなのか」と疑問を呈しましたが、受け入れられませんでした。当初のデルタ株から、22年にオミクロン株が流行したころには、ワクチンを接種しても感染することが世界中で確認されていたにもかかわらずです。
さらに、「やはり若者への接種は必要なかった」という論が主流になるにつれて、過去に学会が接種を推進してきた記事や動画がネットから削除された。そういった科学者たちの一連の行動や思考に対して、私はずっと矛盾を感じていました。
國部 政府による法的な強制はほとんどなかったのに、日本では国民の9割以上がワクチンを接種しました。スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットはその著書『大衆の反逆』の中で、大衆批判をしています。「大衆とは、自分が他人と同じであることに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一なことに喜びを見出す存在だ」と。コロナ禍では、それに従わない人を非難するといった同調圧力まで起きた。社会全体が同じ方向に動き、異論を排除していく、全体主義的傾向が強く出たと思います。
新田 イスラエルの歴史学者で世界的ベストセラーを生み出したユヴァル・ノア・ハラリの著書に『NEXUS 情報の人類史』があります。彼は、人類は猿と戦っても勝てないほど、個体としては弱いという。そんな人類が地球を支配できたのは情報伝達により、集団で協力することが可能になったからだ、と説きます。
その情報には「秩序をつくり出す情報」と「真実に向かう情報」の二つがある。宗教や愛国心を煽(あお)るプロパガンダ、さらには会社や経済の仕組みなどはすべて実体があるように感じられるけれど、それは秩序をつくるための物語にすぎない。しかし、秩序は社会を安定させる役割を果たし、人間の力を生み出す源にもなっている。一方、真実や真理にはつねに検証と自己修正が必要で、それは大変に難しく、時間もかかるため高コストです。秩序は気持ちいいけれど、真実を求める過程では不愉快なことも多い。だから、人々は複雑な真実より、わかりやすい物語を求めてしまう。コロナ禍で起きたことも、その構図で理解できると考えています。
◇「真実を追究するふり」をした科学者
國部 一度「これが真理だ」と社会に広がると、それは物語化され、秩序の一部になる。すると、それに疑問を投げること自体が「秩序を乱す行為」になってしまう。本来は、そこに異論を差し挟み、自己修正を促す人々が必要で、それが科学者の役割だったはずです。ところが、コロナ禍ではむしろ逆に働いてしまった。
新田 科学というのは間違いがあればそれをすぐに認めて、訂正しつつ、発展してきた歴史があります。検証と自己修正こそが、まさに科学が真実を見つけ出すための道のりなのです。それができなくなれば、科学的態度ではなく、信仰や宗教と化してしまう。秩序から力を生み出すのが政治であり権力なわけですが、コロナ禍ではそこに「真実を追究しているふり」をした科学者たちが入り込んで、行動制限やワクチン接種を推奨した。それがコロナ禍における大きな失敗だったと思います。
國部 そういった側面はコロナ禍で突然起きたのではなく、日本社会に元々あった要素が大きく表面化したのだと考えます。
新田 「ワクチンで社会を回復させる」「ゼロコロナを実現する」。彼らが言った、そういう物語の方が伝わりやすいんですよね。だから多くの人がそこに動かされた。ではマスコミはどうだったのか。人々がわかりやすい物語を求める風潮の中では、真実を追う難しい報道をやっても受けないからやらない、という側面があったのではないか、と。
國部 マスコミの話をする際の前提として、保守とリベラルの話をしておきたいと思います。コロナ禍ではアメリカの民主党バイデン政権と、イギリスの保守党ジョンソン政権ではコロナ政策がまったく違いました。アメリカは州によって法律が異なりますが、民主党では規制強化やワクチン接種の推進が行われ、保守党ではより慎重だった。その方針の違いはなぜ起きたのか、を考えておくことは重要です。
リベラルというのは、「より良い未来のために今をどうすればいいか」と、未来を起点に、現在を考えます。だから「今はワクチンを受け入れて、良い未来を目指そう」となる。一方で保守は、何百年にわたり人間が培ってきた伝統や自然を重視するのです。その枠組みさえ守られていれば、あとは各人が自由にやっていい。その違いが、コロナ政策への態度にも表れていたと思います。
◇「匿名の権力」に支配される人々
新田 リベラルが目指す「未来のあるべき姿」というのは、まさに物語ですよね。本当にそうなるのかはわからない。でも、その物語によってシステムが一度構築されてしまうと、人々はそこに安心感を覚えて、その方向に流れていく。
國部 それを踏まえたうえで、マスコミはどうなのかといえば、「今が素晴らしい」という記事を書いても誰も読まないので、どうしても「ここがいけない」「現状のままではだめだ」というリベラル的な論調になる。それが、結果的には一般の人々の希望を反映する形になっているわけです。マスコミには本来、社会が間違った方向に行きそうな時に矯正する機能がありますが、それをやると秩序に影響しかねない。だから、その点に関してはすごく消極的になるんですね。マスコミは革新的に見えて、本質的には社会に迎合しないとビジネスが成り立たない構造になっているんです。
新田 でも、どこかでそれを断ち切る勇気や手法を持たないと、社会を間違った方に大きく誘導してしまいますよね。それは戦時下でも起きたことです。
新型コロナワクチンによって健康被害を受けた人が国に申請する「予防接種健康被害救済制度」というのがあります。健康被害が認定された件数は約9500件、そのうち死亡一時金・葬祭料に関しては約1000件と、単独のワクチンに関する認定数としては異例です。史上最大ともいえる健康被害を生んでしまっているのです。でも、そういった事実は大手のマスコミではまったくといっていいほど報道されません。
國部 20世紀を代表する哲学者ミシェル・フーコーによると、現代は「システムが握る権力」になっています。封建時代は、国王や将軍などが支配する「実名の権力」でした。でも、そういった戦いや武力による統治というのは、大変に非効率です。では、どうすれば効率よく統治できるかというと、人々が自分で自分を管理してくれればいいわけです。上から強制するのではなく、自己規律により社会の一員になってくれるよう仕向ければ、権力はもっと広く効率的に人々を支配することができます。
新田 人が、自身の内面から従っていくようにする。学校教育はその典型ですし、会社や医療もそういった仕組みの中にあります。
國部 その究極の形としてフーコーが語ったのが「生(せい)権力(匿名の権力・バイオパワー)」です。現在は、「生命を守る」というのを最上位の価値において、そのもとに政治や科学、経済が結びついて、一つの巨大なシステムを形づくっている。そのシステムが、市民の自己規律を促し、支配する構造になっているのです。たとえば、健康診断というのがありますよね。症状がなくても体のさまざまな数値を測り、「正常値から外れている」と言われれば不安になり、医療行為を受ける。それは医療であると同時に経済行為でもあります。これは実は、「個人の健康」という最もプライベートな部分への権力の介入なのです。
また、このシステムの特徴というのは、誰がトップに立っても構造自体はほとんど変わらないことです。首相や会社の社長が変わっても、大きな仕組みそのものには変化がない。つまり、本当の権力者は個人ではなくシステムなのです。
新田 政治、経済、科学といったすべてがこのシステムの中にあり、我々市民はそれにより支配されているわけですね。
◇思考を停止する「凡庸な悪」の罪
國部 でも逆を言えば、この仕組みの中で何らかのポジションを得られれば、それで生き延びることができます。近代社会では、医者も科学者もこのシステムの中で地位を与えられている。コロナ禍ではこれがフルに力を発揮して、生権力のシステムに入らない言説、主張をことごとく排除してしまった。その意見や存在を認めるとシステムが崩れる危険性があるからです。システムにとって一番困るのは、従わない人たちなのです。
新田 そこから外れる、たとえばコロナワクチンへの疑義を唱える人たちというのは、だから苦境の立場に置かれたんですね。
國部 それでも、「自分の真実」を語らなければ、人は権力に主体的に対抗できない。もちろん、誰もがそれをできるわけではないかもしれない。でも少なくとも、「自分と対話する」のが人生においては非常に大切だ、ということに気づく必要があります。
ユダヤ人でナチスドイツの迫害を受けた被害者でもあった哲学者ハンナ・アーレントは、全体主義とは何かを探求した人です。そして全体主義の問題の本質は、ユダヤ人を大量殺戮(さつりく)した極悪人にあるのではなく、ただ思考を停止して指示に従った凡庸な人間にあったと主張しました。それは人間の「凡庸さ」の中に潜む「悪」です。でも、その「凡庸な悪」に陥らずに生きられる人もいる。それは判断基準を自分の内部に持っている人であり、自分の内面と真に対話できている人なのです。
イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、イタリアがコロナ禍でパンデミックに陥り、ロックダウンを強行した時から、国民の自由を制限する政治を激しく批判していました。そしてコロナ禍を、「これは内戦だった」と語ります。敵は外ではなく内側にいる、つまりコロナ禍の敵はウイルスではなく、人間自身の内面にあると主張したのです。
そして「凡庸な悪」に陥らない、「自己のうちの自己」とともに生きる人たちは平時には見分けがつきませんが、異常事態が起きると自分自身を基準にして考えるので、全体の動きとは違う方向へと行きます。
新田 でも、そういう考え方ができる人とできない人がいますよね。大勢に従う人と従わない人は何が違うのでしょうか。遺伝なのか、あるいは環境なのか。実は私自身、今のように科学者の中で異論を唱える立場になるとは、まったく想像していなかったのです。
國部 生物学的に見れば、もし全員が同じ方向に従ってしまうと、種全体としては危険です。集団の中心にとどまる個体もいれば、周辺に出ていく個体もいる。そうやって外に出ていく少数派が存在するからこそ、種は環境変化にも適応し、生き延びていくことができたのです。
新田 私個人でいえば、少数派としてコロナ政策やコロナワクチンに疑問を呈したのは、真理というのは常に自然の側にあると考えてきたからです。自然を超越するものはない。理(ことわり)の外にあるものなどない、と考えています。繰り返し感染する病原体に対して、「ワクチンで完全に免疫をつけて感染を防ぐ」という発想自体が、自然の節理に反し、理から外れているのは明白でした。
國部 新型コロナウイルスは人類が初めて経験した、ある意味、歴史的な出来事でした。だからこそ、国民が簡単に政府を信じて従ったあの日々は何だったのかという検証が、絶対的に必要なのです。それをやらなければ、いつかまた必ず同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。
サンデー毎日編集次長・鳥海美奈子
◆取材後記 権力へ主体的に抗するために「自らに問う」
コロナ禍で、誰もが外出禁止令を守り、我先にとワクチン接種に向かう中で、ざらりとした感触が心を支配していた。人々が一方向へとひた走る時には、「何かがおかしいのではないか」と疑うべきだと、過去の歴史はそう示唆していた。しかしその思いを、当時は他者に語ることは決して容易ではなかったし、事実、できなかった。
國部克彦氏の著書『ワクチンの境界―権力と倫理の力学』はまぎれもない名著である。この本は、私の心の中にあった違和感の正体というものを、鮮やかに描出してくれた。古今東西の政治や思想哲学を縦横に、見事に咀嚼(そしゃく)しながら、コロナ禍の実態を浮き彫りにしてみせた。
本誌では、23年春からコロナワクチンへの疑義を唱えてきた。報道にあたり、どこへ向かえばいいのか迷うと、必ずこの國部氏の本へと還っていった。
一方の新田剛氏は免疫学の専門家であり、自身の思考と態度を貫き続けた、数少ない科学者の一人である。免疫学会における印象深いやり取りは、記事にある通りだ。「自らに問え」。まさにコロナ禍における新田氏の有りようが、その実践だったといえるだろう。屹立(きつりつ)した精神の源にあったのは「自然の理」だったとこの対談で初めて知り、大変に深い感銘を受けた。
慧眼(けいがん)を持つ二人による「サンデー毎日デジタル」での対談は広範囲に及び、誌面に収録できたのはごく一部だ。そこではフーコーが唱える「匿名の権力」は衰えつつあり、現在は独裁者の習近平国家主席やプーチン大統領だけでなく、民主主義もまたトランプ大統領という「実名の権力」に握られた、この時代の危うさについても語られている。
感染症によるパンデミックは恐らく、今後も再び起こるだろうと囁(ささや)かれている。その時に我々は、私は、果たして「自分の内面」との対話ができるだろうか。
◇こくぶ・かつひこ
1962年生まれ。神戸大大学院経営学研究科教授。博士(経営学)。大阪市立大、神戸大助教授等を経て2001年より現職。専門は会計学、経営倫理。22年に『ワクチンの境界―権力と倫理の力学』(アメージング出版)を上梓し、新型コロナ対策やワクチン問題を倫理の立場から検討。社会に潜む全体主義的傾向を批判した
◇にった・たけし
1974年生まれ。東京医科歯科大大学院修了。博士(医学)。2014年より東京大大学院医学系研究科准教授。24年より東京理科大生命医科学研究所教授。専門は免疫学と分子生物学。著書に免疫の仕組みを進化生物学の視点から解説した『コウモリはウイルスを抱いて空を翔ぶ―生き物たちのネオ免疫学』(ブックマン社)
◇とりうみ・みなこ
週刊誌記者時代の共著にがん終末期を描いた『去り逝くひとへの最期の手紙』(集英社)、『愛する人への最期の言葉』(勁文社)。その後、フランスのブルゴーニュなどに移住。ワイン関係の著書に『フランス郷土料理の発想と組み立て』(誠文堂新光社)、『日本ワイナリーの深淵』(さくら舎)。現在、『サンデー毎日』編集次長。本誌のシリーズ「がん新時代」を執筆
サンデー毎日デジタルでは國部克彦氏と新田剛氏の対談ノーカット動画をご覧いただけます。パンデミックを経て、いかに生きるか。人生への思想哲学に満ちた議論は必見です
https://nicochannel.jp/sundaymainichi/
サンデー毎日0607号_表紙