【ネタバレ】『銀河の一票』はなぜ批評性と爽快感を両立できているのか?コミカル演出が生み出すキャラクターの魅力

ついに月岡あかり(野呂佳代)の過去が明かされた。その過去が指し示すものとは、『銀河の一票』は立場の弱い人、なかなか世間に自分の声が届かない人、個人の努力ではどうしようもない理不尽や生きづらさに苦しんでいる人に寄り添うドラマであるという所信表明だった。

「消えたい」と「死にたい」の違い

あかりは10年前まで中学校の養護教諭だった。そのとき、集団行動に馴染めず保健室登校をしていた生徒が鈴原ほのか(根本真陽)。仲の良かった親友が転校し、クラスメイトとうまくコミュニケーションをとれなかったほのかにとって、あかりは唯一の心を許せる存在だった。あかりに褒められて、ほのかはどんどん趣味だった人形づくりにのめり込んでいく。   けれど、それを母の沙耶(宮地真緒)は良く思わなかった。これに関しては、沙耶の言い分もわかるだけになんとも心苦しい。僕も簡単に「逃げていいよ」という人を信用しない。なぜなら逃げたところで、その先も人生は続いていくから。でも、「逃げていいよ」と言った人が責任をとってくれるわけではない。いくら先送りにしたところで、最終的にケツを拭くのは自分だ。もちろんその先送りが必要な時期もあるのかもしれないけど、安易な「逃げていいよ」を優しさとして流布するのはちょっと危険な気がする。   学校の先生が生徒に関わるのは、学校に在籍している期間だけ。でも、親はそうはいかない。少なくとも成人するまでは子どもの人生の責任を負わなければいけない。だから、母親のなんとか娘を教室に戻したい気持ちも、将来のために勉強をさせたい気持ちも、よくわかる。何も間違っていない。   でも、あかりが間違っていたとも思わない。ほのかはベランダから飛び降り、自殺を図った。その直接的なきっかけをつくったのは、母親との言い争いだろう。なのに、あかりが職を失い、世間からのバッシングを浴びた。理不尽だ。でも、この理不尽と戦う気持ちさえ、そのときのあかりは失ってしまっていたんだと思う。   「消えたい」。あかりも、ほのかも、そう思った。これが「死にたい」ではなく「消えたい」なことに、深い絶望と無力感を見た。たぶん「死にたい」のほうが、能動的なんだと思う。「死ぬ」には強い衝動や決心が必要だ。「死にたい」は切実な生への執着の裏返しでもある。「消えたい」はもっと弱々しい。風に揺れるろうそくの火のように、泡となる人魚のように、徐々に存在が薄まり、誰にも知られず、誰からも気づかれず、そっとその場からいなくなる。「消えたい」人はSOSすら上げられない。   だからこそ、“チームあかり”のスローガンは「誰も消えたくならない東京都」になった。そんなふうに誰も自分の存在を否定しなくていい社会を。生きるエネルギーが潰えることのない暮らしを、自分たちの手でつくり上げる。養護教諭をして、スナックのママをして、きっとマスコミは異色の経歴と書き立てるであろうあかりが、自分の人生を通して実感したスローガンだ。ほのかと出会ってからの10年がなければ、あかりは「誰も消えたくならない東京都」という言葉に辿り着けなかった。すべてちゃんと意味があったんだと思う。   この出馬表明で、あかりは嘘をついた。養護教諭を辞めたのは、ほのかの一件で責任をとらされたからじゃない。人形作家を目指すほのかに触発されて、自分ももう一つの夢であるスナックのママへの道を踏み出すことができたと語ったのだ。雲井蛍(シシド・カフカ)が教えた「順番を入れ替えて、記憶をすり替える」だ。   嘘が得意ではないあかりが、どうしてここで嘘をついたのか。それは、きっとほのかのためだろう。学校を去ったのは、あなたのせいじゃない。だから、あなたが心を痛める必要なんてない。誰も傷つけない、大切な人を守るための嘘。そして、その嘘があかりの覚悟を強くした。いよいよ都知事選の火蓋が切って落とされようとしている。

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