知能のない個体が集団では“賢く見える”理由を数学的に解明
私たちの体の中で動き回る細胞は、脳を持っていないのに、不思議と「行くべき場所」にたどり着きます。
このとき細胞が手がかりにしているのが、周りに広がる化学物質の“匂いの地図”です。
体の中では、傷ついた場所や感染した場所から、さまざまな物質が放出されています。
これらの物質は時間とともに周囲へ広がり、場所によって「濃いところ」と「薄いところ」ができます。
このような差がある状態を、化学物質の濃度勾配(gradient)と呼びます。
細胞は表面にあるセンサーで、この濃度のわずかな違いを感じ取り、少しでも“濃いほう”へ向かうように動きます。
このような仕組みは、専門的には走化性(chemotaxis)と呼ばれていますが、イメージとしては「パン屋さんの匂いが強いほうへ歩いていく」ようなものだと思ってください。
今回の研究では、この匂いの地図をめぐる細胞たちのふるまいを、シンプルなルールに落とし込んでモデル化しました。
単純な知能しか持たない細胞集団による環境探索と、効率的な探索を実現する環境への最適な情報の読み出しと書き込みの概念図/Credit:東京大学 生産技術研究所舞台として用意されたのは、ゴールとなる“餌”が隠された迷路です。
研究チームは、実際の細胞の代わりに「とても単純な仮想細胞」をコンピューター上にたくさん配置しました。
この仮想細胞には、賢い脳も記憶もありません。
できることは、「周りの匂いの濃さを感じること」と「少しだけその匂いを自分でもまくこと」だけです。
ここでいう「匂い」は、現実の世界では免疫細胞を呼び寄せるサイトカインや、細菌が養分を見つけるときに頼りにする栄養分の濃度を抽象化したものです。
たとえば、細菌は糖などの栄養が多い方向へじわじわと集まりますし、白血球は炎症部位から放出される物質の濃さをたよりに傷口へ集まります。
研究の迷路の中で変化する化学物質の濃度は、こうした実際の体内環境を、数字と色のパターンとして表現したものだと考えると分かりやすくなります。
仮想細胞たちは、まず手探りで迷路の中をうろうろと動き回ります。
どの道がゴールに近いのかは、最初は誰も知りません。しかし、ゴールに近い場所では、目標から出る匂いが自然と強くなります。
そこにたまたま到達した仮想細胞は、その周囲に自分の匂いも上乗せしていきます。一方で、行き止まりのようにゴールに近づけなかった場所では、匂いがあまり増えません。
その結果、時間がたつほどに、迷路の中には「行き止まりは匂いが薄く、ゴールに通じる道だけ匂いが濃くなる」というパターンが形成されます。
この匂いの分布こそが、細胞たちにとっての「外部記憶の地図」になります。
仮想細胞は賢くなったわけではありませんが、「より匂いの強い方向へ進む」という単純なルールだけで、だんだんと正しい道筋を選びやすくなります。
研究者たちは、このようなシミュレーションを通じて、「個々の細胞が特別に賢くなくても、集団として動くことで、あたかも迷路を学習したかのように振る舞う」ことを示しました。
さらに興味深いのは、この集団のやり方が、ときには「高性能なひとりの探索者」を上回るという点です。
研究では、完璧な記憶力を持ち、自分の頭の中に地図を作れる“賢いひとりのエージェント”とも比較しています。
個による中央集権的な情報処理と単純な知能しか持たない集団の分散的情報処理/Credit:東京大学 生産技術研究所すると、たった一人の賢い探索者は、運が悪いと一定時間内にはゴールにたどり着けないこともあるのに対し、たくさんの単純な仮想細胞が匂いを通じて環境そのものに情報を書き込んでいく方式では、集団として安定してゴールに近づけることが分かりました。
つまりこの研究が教えてくれるのは、「賢さ」は必ずしも個人の頭の中だけにあるわけではない、ということです。
周りの環境に残された“痕跡”をうまく利用すれば、何も考えていないように見える小さな存在たちが集まるだけで、驚くほど賢いふるまいが生まれるのです。