坂本龍馬でも西郷隆盛でもない…明治維新を成功させ植民地化から日本を救った"ラッキーな2つの出来事"(プレジデントオンライン)
19世紀末、欧米列強によるアジア植民地化の波が押し寄せる中、なぜ日本だけがその難を逃れることができたのか。新著『改訂版 超効率! 世界史年代サーキットトレーニング』(かんき出版)を上梓した予備校講師で世界史YouTuberの鈴木悠介さんは「日本が近代化と独立を守ることができたのは、幕末の志士だけの手柄ではない。最大の要因は“世界情勢の奇跡的なタイミング”にあった」という――。 【写真を見る】日本の植民地化を免れるきっかけとなった「世界での事件」 ■19世紀末、アジアは欧米列強の「草刈り場」に 明治維新といえば、薩摩藩や長州藩の志士たち、あるいは坂本龍馬や西郷隆盛といった英雄が活躍して日本を救った――という国内のドラマを思い浮かべる人が多いでしょう。 坂本龍馬や「海援隊」を主役とした小説やドラマ作品は数え切れないほど生み出され、今でも人気を博しています。 しかし、実はこういった国内の事情は、明治維新が成功して日本が近代化に成功し、列強の植民地化を免れた要因のほんの一部にすぎません。 その裏には世界各国の思惑と事情が複雑に絡み合う、壮大で奇跡的な背景があったのです。 19世紀末、帝国主義が最も猛威を振るっていた時代には、欧米列強によるアフリカ分割やアジアの植民地化が進みました。 インドは完全にイギリス領となり、インドネシアはオランダ領、ベトナムはフランス領になるなど、アジアは欧米列強のまさに「草刈り場」と化していたのです。 そして、かつて「眠れる獅子」と恐れられた巨大な中国(清)ですらも、1840年から1842年にかけて勃発したアヘン戦争でイギリスに大敗を喫しました。沿岸部を食い荒らされ、事実上の半植民地状態へと転落していったのです。 有色人種の国のことごとくが白人国家の支配下に置かれ、資源を奪われ、労働力を搾取される。これが当時の「世界の常識」であり、逃れられない運命でした。
■なぜ日本は他国の植民地化を免れたのか 欧米列強が行う植民地化には、定番の「テンプレート」のようなものが存在しました。まず軍事力でガツンと圧をかける「砲艦外交」を行い、そのあとに不平等条約を結ばせて経済を支配するというやり方です。 典型的な手法では、領事裁判権を認めさせ、関税自主権を奪う。さらに、借金漬けにして首が回らなくなった状況で、領土や関税収入などを差し押さえるのです。 最初から「侵略する」と宣言して領土を切り取るのではなく、「保護国化」や「租借地」の設定など、外堀から埋めていく形で支配を進めました。 超大国である中国(清)がイギリスの最新鋭蒸気船と大砲の前に手も足も出ずに敗北したという衝撃的なニュースは、海外情勢の報告書「オランダ風説書」を通じて、江戸幕府の上層部や知識人たちに伝わります。 江戸幕府は、「日本もこのまま行けばテンプレ通りに支配されてしまう」という強い危機感を抱いていました。 そして1853年、とうとう日本にアメリカの黒船が来航します。 そのような大きな危機に直面していた日本が、なぜこの後、他国の植民地化を免れうまく泳ぎきったのか。その大きなポイントとなるのが、イギリスとロシアによる「グレート・ゲーム」に象徴される世界規模の覇権競争の構造です。 ■ペリー来航と同年に勃発したとある戦争 当時の大国であるイギリスとロシアは、長年にわたり覇権争いをしていました。 ロシアは冬でも凍らない港「不凍港」を求めて「南下政策」を行っており、まずバルカン半島方面から南下して地中海に出ようと試みました。しかし、奇しくもペリー来航と同年となる1853年、ロシアとオスマン帝国の間でクリミア戦争が勃発します。 翌1854年には、ロシアの地中海方面での南下を警戒するイギリスとフランスもオスマン帝国側に立って参戦しました。 地中海側からの南下を阻まれたロシアは、極東方面からの南下をさらに加速させます。 これを見たイギリスは黙っていません。 清に巨大な利権を持っていたイギリスは、ロシアの動きを警戒し、日本を防波堤として利用しようと考えます。クリミア戦争が始まると、イギリスはロシア艦隊が日本の港を利用することを警戒しました。 そうした中、東インド・中国艦隊司令長官ジェームズ・スターリングが1854年に長崎を訪れ、交渉の結果「日英和親条約」を締結します。 またその翌年の1855年には、ロシアとも「日露和親条約」を結ぶに至りました。 ただし、英露はクリミア戦争で互いを牽制する関係にあり、どちらか一方が日本を一方的に支配することも容易ではありませんでした。さらに列強にとって東アジア最大の市場・権益の対象は清でした。 こうした事情が重なった結果として、日本は攻め込まれることなく植民地化を免れたのです。