生き別れた父親か 1年にわたる追跡取材で発見 「神様が許してくれるなら親族に会いたい」フィリピン残留2世の最後の願い

「確かに利太さんはフィリピンに渡っていた」

鳥取県にそびえる大山の麓、小さな集落で私たちは1年間、捜し続けた人物と会うことができた。

フィリピン残留2世の無国籍問題を3年にわたり長期取材する中で出会った94歳のカンバ・ロサリナさん。太平洋戦争の混乱期に日本人の父親「カンバ・リタ」さんと生き別れたという。

取材をすすめると、「神庭利太」という男性がフィリピンに渡った記録が見つかった。

「この2人がもし同一人物だったら…」

わずかな希望をもとに出身地とみられる場所に足を運ぶと、そこには確かに「利太さん」が生きた証が残されていた。 (テレビ朝日報道局 松本健吾)

20年以上父親を捜してきた

フィリピン・ダバオで暮らすカンバ・ロサリナさん(94)は、生き別れた日本人の父親を20年以上も捜し続けている。

戦前の国籍法では、父親が日本人の場合は子どもも日本国籍になったが、父親の戦死や強制送還で手続きができず、残留2世の多くが無国籍状態となった。

戦後しばらくの間は日本とフィリピンの間に国交がなく、また、自身が日本人の子どもであることを証明するための両親の婚姻記録や出生証明書などが戦火でなくなっていることが多いため、国籍回復の手続きがなかなか進まない現実がある。

ロサリナさんは日本国籍の回復を希望しているものの、去年、父子関係を証明する証拠が足りないなどとして、国籍回復の申請が家庭裁判所に却下された。

父の名は「カンバ・リタ」

母親から聞いた父親の名前は「カンバ・リタ」。洗礼証明書には父親の国籍の欄に「日本人」と書かれていることまでは分かっている。

更に、支援団体フィリピン日系人リーガルサポートセンターの調査で、「神庭利太」という人物が戦前に鳥取県からフィリピンに渡った記録も見つかっていた。

「この2人が同一人物だと証明することができれば、フィリピンとの繋がりを示す新たな証拠がみつかれば…」

私たちは独自に取材を進めることにした。

カンバ=神庭か まずは鳥取を取材

まず、インターネット上で「神庭」と検索すると、山陰地方にルーツを持つ姓であることが見えてきた。

パスポートの記録から鳥取県出身ということもわかっていたため、鳥取県に絞って取材をすすめると、米子市などに「神庭」の名のついた会社が複数見つかった。

しかし、「神庭 フィリピン」などと検索しても、それ以上の情報は何も出てこなかった。

私たちに残されたのは、現地に行って一軒一軒訪ね歩き、わずかな可能性に懸けることだった。

「神庭さんを探しています」

7月末、鳥取・米子空港に降り立った。朝一の便で到着、その日の最終便をおさえた。鳥取滞在時間は12時間。限られた時間で効率的に回るため、事前にリサーチをしていた米子市内の「神庭」がつく会社をまずは訪ねることに。

門前払いを覚悟していたが「神庭さんを捜して東京から来ました」と説明すると、丁寧に耳を傾けてくれた。対応してくれた女性の話では、親族に「利太」という人物はいないとのことだったが、隣町の伯耆町にも別の神庭さんが住んでいて、板金店を営んでいるから訪ねてみたら良いと教えてくれた。

他に行く当てもないので、隣町に移動し板金店を訪ねてみると、玄関先で花を手入れしている女性がいた。「米子市の神庭さんに紹介されて来たんですけど…」そう伝えると、作業を中断し母屋にいる夫のもとに連れて行ってくれた。

改めて、こちらの取材意図を伝えると男性は

「うちの親族にはフィリピンに渡った人はいない。ただ、大山の麓の集落にも別の神庭さんがいて、そこにはある程度まとまって住んでいるのではないか。鳥取県内だと、あと別のもう一カ所くらいにしか神庭は住んでないのではないか」

と教えてくれた。

「利太さん」の名前に男性はハッとした表情に

再び車を走らせ、大山を目指す。ゆるやかな坂道を20分ほど登ると、小さな集落に辿り着いた。

誰かに声をかけようにも、ほとんど人は歩いていない。集落を歩いてみると半分ほどが空き家だった。

ただ、集落の入り口にあった石碑を確認すると、そこには「神庭」の名前が刻まれていた。確かにここに神庭さんはいる、と思うと少し気が楽になった。

そして、この集落でずっと暮らしてきたという男性に辿り着いた。「神庭利太さんを捜している」と伝えると、男性はハッとしたような顔をして、

と尋ね返してきた。

一緒に行っていたカメラマンと目が合う。なぜこの集落に辿り着いたのか、利太さんを捜している理由などを丁寧に説明すると、納得をしてくれたようだった。

「利太さんは、この集落に住んでいた。ずっと一人だったと思うけど、フィリピンとかっていう話は聞いたことはない。物静かな人だったけど、優しい印象だった」

遂に神庭利太さんを知る人物に辿り着いた。

更に男性は、

「利太さんの話で一番覚えているのは、庭先になっていた小さな実。他では見たこともない緑色の実がなっていた。まだ熟れる前にかじって食べたら、汁が酸っぱかった。その酸っぱさがまた良くて…勝手にとって食べているのが利太さんに見つかった時、怒られると思ったけど、『トゲがあるから気を付けろよ』と優しく話しかけてくれた」

と教えてくれた。

「カラマンシーではないか?」私は、この話を聞いたときにフィリピンで親しまれている柑橘系の実が頭をよぎった。バンコクの特派員時代にフィリピン出張に行くと、必ずカラマンシー入りの料理と酒が提供され、その独特の酸っぱさと甘さが気に入っていた。また、トゲがあるというのも他の東南アジアに自生する柑橘系の植物にはない特徴だった。

そして、男性は近くに住む利太さんの甥を紹介してくれた。

「フィリピンに渡っていたのは間違いない」

甥も私たちの訪問にびっくりしていたが、利太さんについて知っていることを話してくれた。

「利太さんがフィリピンに渡っていたのは間違いない。戦後日本に帰ってきて、ここで竹とりをしながら一人で暮らしていた。優しい人だった。ただ、自分はまだ幼かったから利太さんがフィリピンで結婚していた、とかそういう話はしたことがなかった」

そのうえで、

「きょうの出会いが、この話が利太さんの娘さんの国籍の回復に繋がってくれれば」

と話してくれた。

そして、利太さんの晩年の写真も見つかった。地元の老人会で、旅行に行ったときのものだ。

周囲の人と比べると少し小柄で、ロサリナさんが持っていた父親とみられる人物の写真と背丈などがどこか似ている気もする。

ロサリナさんは小学生の時、父親と会った時のことを覚えていた。写真を見れば、また新たな記憶やエピソードが記憶の底から呼び起こされるかもしれない。

94歳になるロサリナさんは

「神様が許してくれるのならば、日本の親戚に会いたい」

と話していた。

既に足腰も弱り、来日は現実的ではない。せめてこの写真を届け、利太さんの甥の存在などを伝えることができればと思う。支援団体によると、今後は今回の新たな証言と合わせて、血縁関係を証明するためのDNA鑑定などを進めていくという。

ついに日本政府が動く

戦後80年のことし、ロサリナさんらフィリピン残留2世の無国籍問題の解決に向けて、日本政府が遂に動き出した。3月、石破総理大臣が国会で残留2世の国籍回復に向けた支援について前向きな姿勢を示し、4月には外遊先のマニラで残留2世と面会も果たした。3年前にこの取材を始めた時には、政府がここまで動くとは想像もしていなかった。そして、この政府の新たな方針に従うように、8月初旬には初めて国費での残留2世の男性の訪日が実現し、80年越しの親族対面が実現した。このケースも、DNA鑑定によって血縁関係が認められ、国籍回復の申請が家庭裁判所に提出、審判の結果が待たれている。

フィリピン残留2世の平均年齢は83歳を超えた。私たちが2年前にダバオで出会い、カメラの前で情報提供を呼び掛けたスマダ(ユソン)・レメディオスさんは、ことし亡くなった。国籍回復は間に合わなかった。今もフィリピンには49人の残留2世が、父親と同じ日本国籍の回復を希望している。

そしていま、新たに名乗り出たケースもある。戦後80年の節目、私たちは何かきっかけを求め、節目という言葉を使う。しかし、かつての戦争が引き裂いた日本人の家族が今もフィリピンでひっそりと暮らしているという事実は残されたままだ。もう10年も経てば、ほとんどの残留2世は亡くなるだろう。しかし、彼らが「日本人と認めてほしい」と願い続ける限り、これからも終わらぬ戦後を伝え続けていかなければいけない。

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