「あきらめる順番、議論する局面」 縮む社会保障で今起きていること
衆院選が公示された直後の1月下旬、岐阜県の山あいにある白川町で、1人の医師が雪が舞う中、車両がギリギリ通れるような起伏のある小道を進んでいた。向かうのは1人暮らしの90代男性の自宅だ。
人口約6700人、高齢化率5割に迫る町で唯一の病院・白川病院院長の野尻基(もとい)さん(46)。白川町で医療と介護、福祉を連携させようと奔走した父真さん(76)の後を2年前に継いだ。物価高や人件費の高騰の影響で、病院の経営は思わしくない。
Advertisement社会保障費が膨張する中、各党は現役世代の社会保険料軽減を公約に掲げる。その実現には社会保障費の削減が不可欠だ。制度は、白川町で野尻さんが在宅医療を通じて患者にもたらしているような安心を、これからも支え続けられるのだろうか。
「家で最期まで」のニーズに応えたい
この日は、男性の月1回の訪問診療の日だった。「こんにちは」。歩行器を支えに歩く男性は、耳が遠い。部屋中に響き渡るような声で野尻さんは声をかける。「えらい(つらい)とこ、ないですか」
男性の家を後にし、強まる雪の中、車で峠を上り下りし、次に向かった先は、2人とも90代の夫婦の家だった。腰を圧迫骨折し歩くことが難しい夫を、妻が介護している。
どちらのケースも、病院まで自力で通うすべはなく、訪問診療が頼みの綱だ。「『家で最期まで暮らしたい』というニーズがあれば支えたい」。野尻さんはそう語るが、病院の経営は苦しい。
訪問診療はこの日、2時間で2軒を回った。効率は悪い。患者向けに無料の送迎バスも運行しているが、物価高騰でコストが上がり、診療報酬の収入では賄いきれない。2024年は赤字だった。
安心を支える制度 続けられるか
厚生労働省の調査によると24年度、病院の約7割、診療所の約4割が赤字だった。物価高や人件費の高騰が要因だ。政府は昨年末、26年度診療報酬改定で、医師の技術料や人件費にあたる「本体部分」で、30年ぶりとなる大幅な引き上げを決めた。だが、それから1カ月となる衆院選では、与野党を問わず社会保険料の引き下げを訴える。
経営が苦しさを増しているのは医療だけでなく、介護でも同様だ。25年の介護事業者の倒産は176件(負債1000万円以上)で、2年連続で過去最多を更新した。
西東京市のデイサービス「ハミング」は、60代~100歳代の47人を受け入れている。経営状況は厳しい。コロナ禍による利用控えから利用者数が戻りきっていないことや、最低賃金の引き上げなどが影響している。
昼食の調理は自前のため、物価高も直撃した。24年度は法人全体で300万円の赤字になり、25年度も黒字は見込めないという。
現役世代の負担感強く
東京都内にある関連事業所は、経営悪化で昨年6月にデイサービス事業をやめた。運営するNPO法人理事長の金見芳子さんは「このままでは数年後には、『ハミング』のデイサービス事業も継続が難しくなる」と明かす。
国は今年度補正予算で介護職の賃金を月最大1・9万円引き上げる支援策を講じ、26年度には同様の目的で臨時改定を実施する。しかし、30年ぶりとなる民間の賃上げトレンドの中、他業種への人材流出を止めることができるかは不透明だ。
日本の社会保障制度は、給付を受ける高齢者が増える一方で、保険料を支える現役世代は減り続けている。負担感に対する現役世代の不満は強く、今回の衆院選では、ほとんどの政党が現役世代の社会保険料の軽減を公約に掲げる。
社会保障費を削った「しわ寄せ」どこに
一方、社会保障の財源である消費税は、具体策に違いがあるものの、チームみらい以外は「減税」を訴える。新たな安定財源を得ることは簡単ではなく、負担増を含む制度の見直しや、医療や介護の公的サービスそのものの縮小が迫られる。
医師の紅谷浩之さんは15年前から、福井市で在宅医療を始め、訪問介護など介護分野にも取り組んできた。「目の前にいる、患者や高齢者らの選択肢が減っていくということ。社会保障費を削るということで、どこにしわ寄せがくるのか、国はリアリティーを持って知るべきだ」と指摘する。
自身は医療法人と社会福祉法人で理事長職にある。どちらもここ数年、人手不足に悩み続けている。昨年、社福法人では訪問介護事業からの撤退を余儀なくされた。「現状を見据えた上で、従来の医療・介護であきらめる順番を議論する局面に入っている」と実感している。
OTC類似薬見直し 政府の狙い
高齢化で社会保障費が膨張する中、政府はこれまでも、医療・介護制度改革を通じてその抑制を図ってきた。
患者の負担増に直結する見直しは、政権のダメージにもつながりかねない。昨年末にも改革の「本丸」とみられていた、高齢者の窓口負担の引き上げは議論が来年度に持ち越された。政府関係者は「高齢者の窓口負担の見直しは反発も予想され、可能であれば触れたくない」と打ち明ける。
そんな中で決まったのが、市販薬と効能や成分が似ている「OTC類似薬」で、患者に追加負担を求める見直しだ。日本維新の会の肝いり政策で、77成分を含む薬について、薬剤費の25%が新たにかかる。
医薬品約1100品目が該当し、幅広く患者に影響するが、年間900億円の医療費削減効果があるという。
この見直しには、医療費の削減だけでなく、政府が推進しようとしている医療での方向性が含まれている。軽度の体の不調は病院に頼らず自分で手当てする「セルフメディケーション」だ。
この流れを、神奈川県横須賀市にある衣笠病院の武藤正樹医師は歓迎する。ここ数年、症状が軽い患者には、市販薬の購入も勧めている。
軽症は「ドラッグストアへ」
衣笠病院は、約190床の地域の中核病院だ。急性期病棟や地域包括ケア病棟も設け、外来は診察を待つ高齢者で連日あふれる。「『医師の働き方改革』が叫ばれる中、午前に診療の受け付けを終えても、午後になってまだ診察待ちの患者が何十人もいたりする」という。医師が、昼食は抜くかつまむ程度で診察し続けることも珍しくない。
「すぐに診なければならない重症患者は確実にいるので、『せきとたんだけ』など軽症だったら、できるだけドラッグストアに行って、セルフメディケーションで対応してほしい」
一方、患者からは、市販薬ではなく医療用医薬品を希望する声が相次ぐという。「成分は同じなのだけど、医療用の方が効きそうだ、と考える患者さんの多さを改めて感じた。ドラッグストアで買えば負担が増えるということも大きい」と話す。
セルフメディケーションの推進は、社会保障費を削減し、社会保険料を軽減する解になるのか。患者に不利益はないのか。
「フリーアクセス」の日本と違う欧州
「医療は患者と医師との情報格差が大きいため、患者に全て自己決定を求めるのには限界がある。患者の意思決定を支援する医療提供体制が望ましい」と指摘するのは、医療政策に詳しいニッセイ基礎研究所の三原岳・上席研究員だ。
そのために三原さんが重視するのはプライマリーケア(初期医療)だ。「英国の国民保健サービス(NHS)ではプライマリーケアが制度として明確に組み込まれており、家庭医(GP)というプライマリーケアの専門医が福祉も含め幅広く相談にのる。その際に患者の意思決定支援が重視されている」
ただ、医療機関を患者が自由に選べるフリーアクセスの日本との違いは大きい。患者の窓口負担はゼロだが、患者は事前に登録するGPに相談しなければならず、専門医の診療や手術を受けるにも、2~3週間以上かかる。「待機期間問題」が常に課題になっているという。
専門医診察は「90日以内」
「高福祉」として知られるスウェーデンも、英国と同様のプライマリーケアの仕組みを持ち、専門的な医療へのアクセスは容易ではない。日本赤十字社常任理事の渡辺芳樹さんは、過去にスウェーデン大使を務めた。現地で、日本の常識では考えられない待機期間に驚かされた。
「プライマリーケアセンターに連絡したら、3日以内に診察、90日以内に専門医診察、その後90日以内に専門医治療がルール。医療へのアクセスの抜本改善はスウェーデン国民の悲願だ」と振り返る。
セルフメディケーションは徹底し、インフルエンザをはじめ、自宅で数日内で治る病気は「薬局で市販薬を買って快癒を待て」と言われるという。
渡辺さんは問いかける。「スウェーデンには患者にも自律の考え方が根付き、医療レベルも高い。ただ、待機期間は長く『患者に優しい』とは言えない。医療費と患者のアクセス、医療の質の三つのバランスをどうとるかが問われるのは、日本も同じではないか」【宇多川はるか、鈴木理之、寺原多恵子】