NHK大河「べらぼう」では最後まで描かれない…桐谷健太演じる江戸随一の文化人・大田南畝の意外過ぎる晩年の姿 下ネタも古典も駆使するセンスで江戸の人気者になるが…
江戸時代後期に活躍した大田南畝とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「文筆業で高い名声を持ち、特に狂歌では天明狂歌のスターといえる存在だった。彼の本職は幕府に使えるエリート官僚で、こちらの評価も高かった」という――。
写真提供=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ
2020年9月25日、東京のザ・プリンスパークタワーで開催されたKDDIのau 5G「Unlimited World」イベントに出席した俳優の桐谷健太
蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は須原屋(里見浩太朗)と連れ立って、自分が出版した『見徳一炊夢みるがとくいっすいのゆめ』を激賞てくれた大田南畝(桐谷健太)に会いに行った。南畝の本職は、将軍の行列を警護する「御徒」を務める幕臣(御家人)だが、その住まいはかなり侘しいものだった。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第20回「寝惚けて候」(5月25日放送)。
しかし、南畝は赤ん坊をあやしながら陽気そのもの。蔦重が「畳が焼けておりますが」と問いかけると、「十年欠かせず陽は上り、十年欠かさず日は暮れた。めでてえこったの太平楽」と返した。
蔦重は、今度は「障子が破れておりますが」というが、南畝は「穴の向こうにゃ富士が見える。穴、穴、穴、穴、あなめでたし」。ふたたび見事に返して、「料簡ひとつでなんでもめでたくなるものよ」と話す。蔦重はそんな南畝がすっかり気に入ってしまった。
耕書堂でなにかを書かないか、と蔦重が勧めると、南畝の返事は「いまなら狂歌」。「一度覗きに来るか、狂歌の会?」と誘われるのだった。
教養があるからできる「言葉遊び」
蔦重が義兄の治郎兵衛(中村蒼)と連れ立って狂歌の会に参加すると、「うなぎに寄する恋」という人を食ったようなお題で歌を詠み合っていたが、お題のわりにはまじめな内容だった。会のあとの酒席でも、「四方赤良よもの あから」という狂名(狂歌の作者としての号)で参加している南畝は、次のような狂歌を詠んだ。
「あなうなぎ/いづくの山の/いもとせを/さかれて後に/身を焦がすとは」
実際に南畝が詠んだこの歌は、分析するほどに見事である。「あなうなぎ」は「穴にいるうなぎ」と「あな憂」(ああつらい)の掛詞だ。
「いもとせをさかれて」は「妹と背(恋人同士)の仲を裂かれて」という意味がベースにあり、そこに別の意味が掛かる。「山のいも」すなわち「山芋」は、山芋がうなぎに化けるという俗信があることから、うなぎの縁語である。また、「せをさかれて」には「うなぎの背が裂かれて」という意味が掛けられているのは、いうまでもない。
「身を焦がす」は、仲を裂かれた恋人同士が恋に身を焦がす、という意味だが、うなぎの身も焼かれて焦げているわけだ。
酔いつぶれて帰宅した蔦重は、回らない呂律で歌麿(染谷将太)にいうのだった。「狂歌、ありゃ流行る。俺が流行らせるぞぉ!」。
Page 2
ただし、狂歌とはもともと詠み捨てられるもので、江戸狂歌にしても、当初は狂歌の会の場で読み捨てられるのが原則だった。
だが、狂歌がブームになって狂歌人口が拡大するなかで、状況は次第に変わっていく。天明3年(1783)に唐衣橘洲編の『狂歌若葉集』と四方赤良編の『万載狂歌集』が相次いで出版された。とくに平安末期の勅撰和歌集『千載和歌集』に倣って、古今の狂歌を内容別に並べた『万載狂歌集』は話題になり、以後、狂歌本は「売れる」ものとみなされ、多くの版元が続々と出版するようになった。そして、ほとんどの狂歌本に赤良こと南畝が関わっている。
『万載狂歌集』が刊行されたころから、南畝は吉原に通うようになり、たいていは幕府勘定組頭の旗本、土山宗次郎とつるんでいた。狂歌会は吉原で開催されることも多かったが、女郎遊びにものめり込んだという。だが、侘しい家に住む御徒の御家人には、吉原で遊ぶ金など捻出できるはずもなく、費用はたいてい土山宗次郎が負担していたようだ。
ブームにあやかって、蔦重は『狂歌才蔵集』などの狂歌集を企画する一方、狂歌会をお膳立てし、そこで詠まれた狂歌をそのまま書籍化する、という方法も生み出した。イベントを仕かけ、それをまるごとパッケージングし、書籍化するのである。こうすれば流行の最先端を短期間で市場に提供できる。蔦重の面目躍如だが、その際、常に主導的な役割を果たしたのが赤良こと大田南畝だった。
幕府の登用試験に首席で合格
だが、天明6年(1786)8月に10代将軍徳川家治が死去し、直後に田沼意次が失脚すると、田沼派に対する粛清の嵐が吹き荒れる。田沼に対ロシアの政策の必要性を説き、蝦夷地の調査などを主導した土山宗次郎も、500両の横領の疑いがかけられ、天明7年(1787)末には斬首されてしまう。
ということは、南畝が宗次郎とつるんで吉原で遊ぶのにかかった金額も、不正で得られた可能性がある。実際、南畝は幕府から目をつけられたとされる。折しも、松平定信が主導して、風紀の乱れを厳しく取り締まった寛政の改革がはじまったこともあり、以後、南畝は幕臣としての職務に立ち返り、執筆は細々と続ける程度になった。
ただ、もともと優秀なのだ。寛政4年(1792)には幕府の登用試験に首席で合格し、寛政8年(1796)に支配勘定に出世している。そして、享和元年(1801)に大坂の銅座に赴任すると、南畝の名声を知る人たちの強い要望を受け、蜀山人の名で、細々とではあるが狂歌を再開している。
死去したのは文政6年(1823)で、数え75歳になっていた。一時はにらまれながらも、うまく立ち回った人生だったといえよう。「今までは/人のことだと/思ふたに/俺が死ぬとは/こいつはたまらん」という、人を食ったようでいて、いい得て妙の時世の歌を遺している。