AIが世界中の数学者を80年間も悩ませてきた超難問を解いてしまった。でも手放しでは喜べないらしい
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中川真知子 ( GIZMODOライター )「フェルマーの最終定理」が証明されたときの熱狂を覚えているでしょうか。
数学者アンドリュー・ワイルズが、7年間のほぼ孤独な戦いの末に証明を発表したのは1993年。ケンブリッジでの講演の瞬間、会場は拍手に包まれました。
ところが直後、証明に穴が見つかります。そこからさらに1年、盟友リチャード・テイラーと苦しみ抜いて、ようやく証明を完成させました。
この挫折と執念の物語に、世界中が熱狂しました。私も、フェルマーの最終定理をきっかけに、数学の面白さを理解しました(この証明の土台に、日本人数学者・谷山豊と志村五郎が1950年代に立てた「谷山・志村予想」があった、という事実に大興奮でしたよ)。
あれから約30年──、80年来の未解決問題だった「エルデシュの単位距離予想」が反証されたというニュースが報じられました。
本来なら、同じくらい大きな話題になってもおかしくないはず。ところが、その主役は人間ではなくAIだったんです。数学者たちの反応は達成感というより戸惑いに近いとIFLSが伝えています。
80年間誰も解けなかった問題
2026年5月20日、研究者たちはこのエルデシュの単位距離予想(Erdős unit distance conjecture)を反証したと発表しました。
単位距離予想とは、平面上に点を自由に配置したとき、互いの距離がぴったり同じになる点のペアは最大でいくつ作れるか、という問題。数学者ポール・エルデシュがこの問いに対する答えを予想し、懸賞金までかけて「これは解けるはずだ」と言っていたものの、80年経っても誰も証明できずにいました。
そこに登場したのがOpenAIのAIシステムです。
予想が正しくないことを示す「反例」を、誰も思いつかなかった方法で導き出してしまいました。プリンストン大学の数学者ノガ・アロン氏はこの解法について、こう評しています。
「発想そのものは自然。でも、そこにたどり着く道のりは、誰も予想しなかったレベルで非自明だった」
土台になっているのは、点を格子状に規則正しく並べる昔ながらの手法。今回のAIは、それを大きく発展させてみせた、というわけです。
人間にはなかった強み
ではなぜAIにできて、人間にはできなかったのでしょうか。
それは、AIにはいくつかの強みがあったから。
まず、エゴを持っていません。そして、人間なら音を上げるような粘り強さで取り組み続けられます。さらに、複数の数学分野の知識を高速に組み合わせられます。
特に今回は、点の配置を扱う「離散幾何学」と、整数や有理数の性質を代数的な数の体系で研究する「代数的数論」という、普段はあまり交わらない2つの分野を結びつけたのがポイントでした。
「離散幾何学と、この手法を試すのに十分な代数的数論の両方に精通している数学者は、それほど多くありません」とアロン氏は言います。
さらにAIは、人間にありがちな「定説はなるべく疑いたくない」というバイアスに縛られず、広く信じられてきた予想に平気で反証を突きつけられたのも大きかったようです。
"ブラックボックス"が数学に入り込んだ
とはいえ、この勝利は素直に喜べるものではありません。テキサス大学の数理物理学者トーマス・チェン氏はこう懸念を口にしています。
「厳密さが求められる数学の作業工程に、ブラックボックスが関わってくるなんてことは、これまで一度もありませんでした」
これまでのコンピューター支援による証明では、数学者がアルゴリズムを完全に把握し、検証できました。
しかし今のAIシステムは中身がブラックボックスのまま動きます。チェン氏いわく、開発者本人たちですら、なぜこのモデルがこれほどうまく機能するのか「実はよくわかっていない、あるいはわかっていないように見える」とのことです。
ワイルズの証明には、少なくとも彼自身が「なぜそれが正しいか」を人に説明できるという確かさがありました。今回はその確かさ自体が揺らいでいる、とも言えそうです。
数学は「証明を出す」だけの仕事じゃない
数学者たちは、証明には単なる「答え合わせ」以上の意味があると主張しています。証明には人間の思考プロセスや直観、概念的なひらめきが詰まっていて、それが分野全体を前に進めていく力になります。
「数学とは定理を証明することだけではありません。何を問うべきか、何が重要かを見極めることでもあるのです」とアロン氏は言います。
チェン氏も、AIは計算や定義がはっきりした問題は得意でも、「単に方程式を解けばいいという話ではなく」、概念的に複雑な問題に取り組むには「人間の直観がたくさん必要」だと指摘しています。
それでもAIは数学に入り込んでくる
先月には、3000人を超える研究者が「ライデン宣言(Leiden Declaration)」に署名しました。これは、AIを無批判に数学へ取り入れることに警鐘を鳴らす声明で、明確さや透明性といった「数学的な価値観」が脅かされかねないと訴えています。
とはいえ、アロン氏もチェン氏も、AIが数学の世界に入り込んでくること自体はもう止められないと認めています。チェン氏は、AIというブラックボックスの中身を理解する責任は、数学者自身が引き受けるべきだと言います。
「コンピューター科学者や機械学習の研究者がブラックボックスを解明できないなら、それを解き明かすのは数学者の役目になります」
AIを、数学という営みそのものを乗っ取る存在にするのではなく、あくまで人間がコントロールできる道具として使い続けるための仕組みづくりが、これからの課題になりそう。
フェルマーの最終定理に挑んだワイルズの物語は、「人間の執念」の象徴として語られます。この先の数学は、AIという未知の相棒とどう付き合っていくかという、また別の物語が展開されていくのかもしれません。
Source: OpenAI, arXiv, Leiden Declaration, IFLScience