「衰退した温泉地」の代名詞だった熱海はなぜ「復活」できたのか《楽待新聞》(不動産投資の楽待)

12/21 19:00 配信

2025年3月、熱海駅が開設100周年を迎えた。東京から新幹線で約45分。首都圏から最も近い本格的な温泉リゾートのひとつである熱海は、高度経済成長期に年間490万人の宿泊者を記録した。しかしバブル崩壊後は「衰退した温泉地」の代名詞となり、2000年代には300万人台まで落ち込んだ。近年、熱海は新たな形で復活しつつある。二拠点生活の拠点として別荘需要が高まり、日帰り客も増加。宿泊者数こそピーク時の6割程度だが、「交流人口」という新たな指標では健闘を続けている。明治期には富裕層しか訪れることができなかった熱海が、なぜ大衆リゾートとなり、衰退し、そして今また息を吹き返しているのか。■熱海は「行けない温泉地」だった熱海の歴史は、「行きたくても行けない」時代から始まる。幕末期にはすでに名湯として全国区の知名度を誇っていたが、東京から熱海へ向かうには険しい山々を越える必要があり、容易に足を運べる場所ではなかった。熱海街道が整備されてアクセスは改善されたものの、それでも片道1日を要した。1889年に東海道本線が開通したが、大きく状況は変わらなかった。当時の路線は箱根山を避けて御殿場経由で建設されており、熱海へ行くには手前の国府津駅で下車しなければならなかった。国府津駅から小田原までは徒歩や駕籠で移動し、一泊してから熱海へ向かう。運賃も時間も莫大で、熱海の温泉は地元民を除けば富裕層が療養に利用するのが一般的だった。こうした状況を変えたのが、実業家の雨宮敬次郎だ。熱海の温泉を愛した雨宮は、自らアクセス改善に乗り出し、1896年に小田原―熱海間の鉄道を開通させた。所要時間は約3~4時間に短縮され、熱海は庶民でも足を運べる保養地へと変わり始める。その後、政府が同ルートで鉄道を建設し、1920年に雨宮の鉄道は国有化された。しかし、国が建設した熱海駅までの線路はあくまでも東海道本線の支線という扱いだった。そのため、熱海は鉄道アクセスという面で長らく不遇をかこうことになる。熱海に転機が訪れるのは1934年に丹那トンネルが完成した時だった。丹那トンネルの完成により、同年には東海道本線が熱海駅を経由するルートへと改められた。そして、国府津駅―御殿場駅―沼津駅の旧線は御殿場線へと名称を変更する。東海道本線に組み込まれたことで、熱海駅に停車する列車は大幅に増え、東京から熱海に足を運ぶ旅行者は一気に増加した。これにより戦前期から熱海人気は高まっていくが、戦時中は政府が旅行の自粛を呼びかけたことから人気の高まりは高度経済成長期まで待つことになる。高度経済成長期に差し掛かる昭和30年代は、庶民も家計に余裕が生まれたことから家族旅行に出かけられるようになり、それが熱海人気を後押しした。加えて、東海道新幹線や東名高速道路といった交通インフラが急速に整備されたことを受けて人気は高まり、国内屈指の温泉リゾートの座を固めていく。■絶頂から衰退へ――温泉離れの時代順調に人気を高めてきた熱海だったが、高度経済成長期が終焉すると様相は一変する。その後にバブル景気で日本は狂乱状態に陥ったが、他方で、社会環境の変化に伴い、社員旅行などの行事が減少。団体客の需要も大幅に減ってしまった。また、急速な円高の影響から海外渡航のハードルが下がり、旅行代理店や旅行雑誌などがこぞってハワイやグアムといった海外の常夏リゾートの旅を奨励するようになった。国内の温泉離れは、絶大な人気を誇っていた熱海にも押し寄せる。ほかの温泉地と同様に、熱海も時代に合致していない旅行スタイルから変化できずに、流行から取り残された。観光地としての魅力を失った熱海は、年間で約490万人の宿泊者数を記録した1974年をピークに、宿泊者数は減少をたどった。しかし、バブル崩壊が熱海に光明をもたらすことになった。バブル崩壊によって海外旅行という「豪遊」ができなくなった日本では、経済的に余裕がなくなった。それに加え、1988年に発売されたリゲインの「24時間戦えますか」というキャッチコピーが流行語となったように、休まず働くことが美徳とされる空気が社会を覆っていた。そうした中で、限られた休暇でも手軽に行ける「安・近・短」の旅行先が求められるようになる。東京から1時間足らずで温泉に浸かれる熱海は、まさにそのニーズに合致していた。■「交流人口」が支える熱海の今熱海の宿泊者数は、2000年代に300万人前後まで落ち込んだものの、その後は下げ止まり、現在は300万人前後を維持している。温泉地の人気低下は全国的な傾向なので、むしろ熱海は「健闘」している部類ともいわれる。先述したように、熱海は東京から交通の便がよいので、最近は宿泊客だけではなく日帰り客も目立つようになっている。また、東京に本邸を構え、週末や長期休暇に滞在するといった二拠点生活用に別荘を所有する人も少なくない。熱海市は早くから宿泊客以外の取り込みを模索していた。1976年には別荘やマンションの所有者を対象に「別荘等所有税」を創設。2000年には市営プールを日帰り温浴施設「マリンスパあたみ」に再整備し、市民利用も促進した。かつては「地元に金を落とさない」と敬遠されていた別荘利用者や日帰り客も、今では交流人口として評価されている。この先見性が、熱海の底堅さを支えている。地方都市では交流人口の獲得すら四苦八苦しているなか、熱海は鉄道アクセスの優位性でこれを確保している。もちろん、アクセスにあぐらをかいて努力を怠れば凋落するだろう。温泉街の競争は厳しさを増している。それでも、東京から約45分という距離は簡単には覆らない。熱海にとって、鉄道は今も最大の武器であり続けている。

小川裕夫/楽待新聞編集部

不動産投資の楽待 編集部

最終更新:12/21(日) 19:00

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