いつから蚊は人類の敵に? 進化の定説を覆した生命科学者、サイエンスに論文掲載

サイエンスに論文の掲載された生命科学者の羽場さん

米コロンビア大学博士研究員で生命科学者の羽場優紀さん。人間の血を吸う蚊の進化に関する従来の定説を覆す画期的な研究成果が認められ、世界的な学術雑誌「Science(サイエンス)」(10月23日発行)に論文が掲載された。2015年に東京大学農学部を卒業して単身渡米、コロンビアやプリンストン、ハーバードなど名門大で研究を積み重ねた。ノーベル賞を目指すスーパー研究人材はどのようにしてキャリアを磨いてきたのか。

親の田舎で動物好きに 麻布中高では生物は苦手

――いつごろから生命科学に興味を持ったのですか。

私自身は東京の出身ですが、親の実家が三重県の田舎にあり、子供の頃から自然の中で昆虫を捕ったり、動物に触れあったりしていました。なぜ昆虫や動物は多様で面白い行動をするのか、人間以外の動物でも知的で合理的な行動をとったりするのが不思議で生物にすごく興味を覚えました。

――では学生時代も生物が得意だったわけですか。

実はそうでもないのです。麻布中学・高校に進みましたが、生物は暗記することが多くて苦手な科目でした。それよりも方程式など一定のルールのある数学や物理の方が好きで、大学受験も物理・化学を選考しました。もともと一見多様で複雑な行動をとる動物にも特定のパターンやルールがあるのではと想定していたのですが、その研究を始められたのは大学3年で農学部に進んでからです。そこから生物種が互いに、あるいは環境と相互に作用してどのように進化してきたかを探る「進化生態学」という学問分野にはまりました。卒業論文ではクワガタのような大アゴで攻撃する昆虫の遺伝子を調べてその行動パターンなどを探る研究をしていました。

――なぜ東大で修士に進まず、米国に留学したのですか。

進化生態学では米国が進んでいたので、ニューヨークにあるコロンビア大学院の修士課程にトライしました。大きなチャレンジで、2年間がんばって研究者になる道が開けなければ、日本に戻って普通に就職しようと思っていました。様々な奨学金をいただきましたが、最初は英語も下手だし、ニューヨークは物価も高く、いわゆる苦学生でした。ただ、数学を活用する教授たちとの研究は相性が良く、スムーズに進みました。動物の死体に集まり、それを餌とするシデムシ(死出虫)という昆虫の習性と遺伝子の関係を研究し、その年の最優秀修士論文に選ばれました。研究者としてやっていけると自信がつきました。

人の血を吸う蚊の定説、ゲノム解析で覆す

――今回、サイエンスで論文が掲載されたのは蚊の研究でしたね。どのような研究成果が評価されたのですか。

コロンビアで修士を取得後にプリンストンで博士課程に進み、そこでチカイエカ(地下家蚊)の研究に取り組みました。世界中の都市の地下などに生息し、人間の血を吸う都市型の蚊の一種で、東京でも発生します。これまでの定説では、チカイエカは19世紀に英国で産業革命が始まり、急速な都市化が進んだ際、生物史上まれに見る速さで適応進化して人から血を吸うようになったと言われていました。英語では「ロンドン地下鉄の蚊 (London Underground Mosquito)」という別名もあるほどで、地下鉄を利用する都市住民を悩ませ、学術論文や教科書にも取り上げられ定説となっていました。

しかし、今回、プリンストンのキャロリン・マクブライド先生と組み、この定説を覆しました。イエカの祖先種は、もともと自然の中の鳥などの血を吸っていました。それが突然変異により都市の人間の血を吸う都会種に突然変異したというわけですが、私たちは祖先種から都会種にいつどのように進化したのか、DNA、全ゲノム情報を徹底的に解析しました。その結果、2千年以上前の古代エジプト、人類が農耕社会を形成した過程で、人から血を吸う蚊に適応進化を始めていたことが分かりました。

米プリンストン大学での蚊の進化の研究が認められた

サイエンス掲載は投稿の5%、ノーベル賞の登竜門

――なるほど短期間で突然変異したわけではなく、数千年の長い時間をかけて人の血を吸う蚊に適応進化したわけですね。この発見は我々の社会生活にとってどんな意義があるのでしょうか。

公衆衛生上の観点から大きな意義があると考えています。チカイエカは、病原菌を媒介してウエストナイル熱や日本脳炎など深刻な感染症の原因にもなります。他にも蚊はデング熱やマラリアなど様々な病気の温床となるので、人類にとって最大の脅威をもたらす生物と呼ばれています。都市型の蚊の分布や遺伝的交雑関係を正しく理解することは、蚊を媒介とする感染症の広がりを予測、防ぐために欠かせないと考えます。

――欧米で広く信じられた定説を覆すとは、ノーベル賞級の研究成果につながるとの評価もあるようですが。

サイエンスはネイチャーなど並び世界三大学術誌の1つと言われており、世界中の研究者から年間約1万3千件の論文の投稿がありますが、審査後に掲載されるのは5%程度と言われています。先日、大阪大学特任教授の坂口志文先生がノーベル生理学・医学賞を受賞されましたが、その授賞理由になった論文も掲載されています。サイエンスなどへの論文掲載は、ノーベル賞級の研究者の登竜門と呼ばれているので、今回はいい励みになりました。

トランプ政権下で研究環境は不安定に、日本に戻る選択肢も

――これまで米国は自然科学分野でトップの実績を上げてきました。しかし、トランプ政権下で大学の研究予算が大きく削減され、苦境の中にあるそうですが。

確かに米国の大学や研究機関は概して厳しい状況です。私はプリンストンで博士号を取得した後、ハーバードを経由して現在コロンビアに戻り、今は大規模なコロニー(群れ)を形成して生活するハダカデバネズミの研究にあたっています。運が良いことにこの研究事業は、政府だけではなく民間の財団の資金支援により運営されていますので、現時点では影響を受けていません。私の場合、プリンストンの時から「孫正義育英財団」の支援を得ており、生活面での心配もありませんでした。

しかし、政府予算の研究事業の場合、深刻な状況にあり、実際に解雇された研究者も身近にいます。外国人排斥の機運が高まり、突然ビザ失効なんていうリスクもあり、非常に不安定な情勢になっています。

――今後のキャリア目標は何でしょうか。米国で研究を続けていますか。

米国の大学はノーベル賞も身近に感じる環境です。プリンストンでは隣にある研究室の教授もノーベル賞受賞者だったし、21年にノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎先生もプリンストンの上席研究員でした。米国の研究環境は非常に良かったのですが、今後はどこの国で研究を続けるか分からないですね。条件や研究費次第ですが、日本に戻る選択肢もあります。中国は研究者の待遇や研究費も非常にいいと聞きますが、自由に研究できるか分かりません。

多様な動物のルールを理解することは人間にとっても普遍的な摂理を導くヒントになると思います。すべての生物はDNAを持っています。私は動物の行動の多様性、複雑性を説明できるDNAと進化のルールを解明することで、人間の行動、社会にもプラスになるように研究者として貢献したいと考えています。

(聞き手は代慶達也)

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