【大河ドラマ べらぼう】第21回「蝦夷桜上野屁音」回想 蝦夷地へと伸びていた「北のシルクロード」 和人による搾取進むアイヌの人たち まだ甘さ、修業中の身を実感する蔦重 愉快な狂歌に教養の裏付け
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。第21回「蝦夷桜上野屁音」はタイトル通り、技巧を尽くしたナンセンスな狂歌の応酬とクリエイターの繊細な心理が鮮やかなコントラストで描かれる一方、蝦夷地(現在の北海道や周囲の島々)が一気にクローズアップされ、当面のストーリーの焦点です。対ロシア関係やアイヌの人たちの搾取など様々なモチーフが見え隠れしました。さらに吉原を舞台に、蝦夷地をめぐって色恋沙汰も交錯する情報戦はサスペンスドラマの様相です。まずはドラマに合わせて、当時の蝦夷地の状況をご紹介しましょう。(場面写真はNHK提供)
特異な藩、特異な藩主
蝦夷地にあった唯一の幕藩体制下の藩、松前藩(現在の北海道松前郡松前町)は、広大な蝦夷地のうち渡島半島南部を領有。その上で他の地域に暮らすアイヌの人たちと独占的に交易する権利を幕府から保障され、遠く宗谷方面や国後島などにも交易の場を設定していました。アイヌとの交易などを通じて得た砂金や鷹、サケ、毛皮、木材などの産物を本州へ移して得られる利益や、入港船から徴収する税などで藩を運営し、蝦夷地の治安維持を担当していました。米を経済のベースとする大半の藩とは成り立ちが違う特異な存在で、名目の石高は大名としては最低ランクの1万石でしたが、実際はもっと裕福だったとみられます。
女郎を2回も身請け
当時の藩主の松前道廣(1754∼1832、えなりかずきさん)は父の死去に伴い、12歳の若さで家督を継ぎました。「松前町史」などによると、自由奔放で才能あふれる人物だったといいます。
剣や槍、武術、書画、茶、香、音曲など文武両道で優れ、社交的な性格で島津家や伊達家、水戸徳川家など有力大名と積極的に交際しました。また色好みで、参勤交代の際に吉原の遊女を身請けし、側室として松前に連れて来たことも2回あったといいます。自分は「北方の守護者」という意識が強かったといい、周囲が止めるのも聞かずに自ら出陣して係争地に足を運ぶほど血気盛んな人でもありました。家臣の妻を標的に鉄砲をぶっ放すようなやりたい放題のキャラクターは、そうした史料に基づいて造形されたものでしょう。
「蝦夷錦」が象徴する松前藩の豊かさ
道廣が宴席に招いた一橋治済(生田斗真さん)の後ろに、ちょっと見慣れない衣服がありました。
「蝦夷錦」です。大河ドラマでは「蝦夷錦」まで本物そっくりに作るのか、と驚かれた方もいらっしゃったでしょう。スタッフの見事な衣装制作によって、より印象に残る意味深なシーンとなりました。
エキゾチックな柄や色遣いが和物とは全く違う雰囲気です。いったい、どういう背景の衣服なのでしょうか。わざわざセットに登場させただけに、道廣はもしかしたら治済に蝦夷錦を贈るのかも、という連想も働きます。
蝦夷錦 1879年旧開拓使函館仮博物場に寄贈された資料 杉浦嘉七旧蔵 市立函館博物館蔵「北のシルクロード」経由で遥々江戸まで
「蝦夷錦」は「蝦夷」といいつつ、実際は中国産です。中国の江南地方で制作された絹織物で、龍や牡丹の文様が特徴です。北京から清の役人によって運ばれ、アムール川流域に住んでいた「山丹人」、さらにアイヌの手を経て蝦夷地に到達。最終的にはアイヌと松前藩の交易によって本州にもたらされ、幕府でも珍重されました。この長大な交易ルートは最近、「北のシルクロード」と呼ばれて注目されています。ダイナミックな人と物の行き来が北の大地で展開されていたのです。
「北のシルクロード」のイメージ図(市立函館博物館作成)そのルートのほぼ終着点にあったのが松前藩。蝦夷地における交易を背景に、外来の高価な品物を入手し、有力者にプレゼントもできるのですから、道廣が治済を含む多彩な人脈を構築できたのも自然な流れです。これが意次たちにとって悩みの種となりました。
意次らを悩ませる“道廣人脈”
幕府の権力基盤を一層、強化したい意次。蝦夷地を幕府直轄領とし、南下政策を進めるロシアとの交易や、鉱山の開発などを通じて歳入を増やし、幕府財政を健全化する構想を描きます。そのアイデアは将軍家治の後押しも得ましたが、実現するにはまず松前家を排除しなければなりません。ここで治済の存在ががぜん、悩みの種となりました。
宴席の場で、松前道廣と一橋治済の昵懇な様子や、高価な「蝦夷錦」を意次に見せつけたのが巧みな劇作でした。権謀術数に長けた治済を「白天狗」とあだ名した意次たちです。権力奪取のためなら暗殺も厭わぬ白天狗。しかも次期将軍になることが決まった豊千代(後の11代将軍家斉)を抱えるだけに、蝦夷地を巡って下手に動けば自分たちの政治生命が終わる恐れがあることも、意次たちは十分に分かっていました。そこでドラマで描かれたように、意次たちの密行調査は、全国の情報が集まる吉原へと繋がっていくのでした。
アイヌの人たちに対する搾取進む
ドラマの焦点となった蝦夷地。このころ蝦夷地のアイヌの人たちはどんな暮しをしていたのでしょう。時代はやや下りますが、江戸時代後期から明治初期にかけて箱館(函館)で活躍した絵師、平沢屏山(1822∼1876)がアイヌの人々の日常を丁寧に描いた作品を残しています。
函館市指定有形文化財《アイヌ風俗十二ヶ月屏風》4~6月1月~7月は宮原柳僊写 8月~12月は平沢屏山の直筆 市立函館美術館蔵 函館市指定有形文化財《アイヌ風俗十二ヶ月屏風》1~3月 函館市指定有形文化財《アイヌ風俗十二ヶ月屏風》7月~9月 函館市指定有形文化財《アイヌ風俗十二ヶ月屏風》10月∼12月狩猟や漁猟で動物や魚を取り、木の実やキノコなどの採取に向かう姿が描かれています。イオマンテ(熊送り)などの重要な儀式も生き生きと表現されており、貴重な記録です。一方で、絵の中には白い帆を立てた和船もところどころに描かれており、和人が身近な存在であったことも分かります。
平沢屏山《地引網図》 市立函館博物館蔵和人とアイヌの人々 支配—被支配の関係に
当初は松前藩とアイヌの人たちの関係は対等だったのですが、和人の蝦夷地への侵出が進み、またシャクシャインの戦い(1669年)などアイヌと和人の間の大きな戦いで松前藩側が勝利したことで、その関係は変容していきます。「徐々にアイヌの人々は漁場の労働者として使役、搾取されるようになり、日本の経済構造の中に組み込まれ、和人の支配下に置かれるように」(2022年、市立函館博物館「平沢屏山とその時代」展の図録より)。上の《地引網図》でも、明らかに和人と分かる男がアイヌの人たちを監視し、働かせている図式が明確です。藩主・道廣の派手な暮らしの背景にはこうした構図もある、と言えるでしょう。
《ウイマム図絵馬》安政年間 市立函館博物館蔵上の絵はアイヌのリーダーたちが松前藩主に会いに行く場面を描いています。背景に松前家の大きな家紋が描かれていることが、この作品の意味合いを明確に表現しています。
《日高アイヌ・オムシャ之図》原本:平沢屏山 大島三之助模写 函館市中央図書館蔵意次の時代のあと、幕府は蝦夷地を直接の統治下におくようになりました。上の作品は、漁場での作業終了時などに、慰労や統治のために行われた「オムシャ」と呼ばれる儀礼の一場面を描いています。幕には葵の紋が描かれ、アイヌの長老たちが一段低いお白砂から役人に頭を下げています。屋敷に入ることを許されない女性や子供らは遠巻きにその様子を眺めています。幕府はアイヌの個人名の和風化、風俗の和風化の奨励など、アイヌの人々の「和人」化を進めました。
南下続けるロシアも視野に
ロシアの動きも目立ってきた時期です。「松前町史」によれば十八世紀初頭に千島列島の最北端に到達したロシア人は、その後列島沿いに南下を続けます。安永7年(1778)には蝦夷地の本島(北海道)にまで現れ、松前藩に通商の許可を求めています。ロシアの苛烈な千島経営で、択捉島やウルップ島では現地の住民がロシア人を殺害する事件も起きていました。
工藤平助の『赤蝦夷風説考』ではロシアの南下を報じていました意次らが手中に収めようとした蝦夷地はこんな状況でした。江戸から遠く離れ、権力争いのコマのひとつのように扱われている土地ですが、現地は江戸に負けず劣らず激動の時代を迎えており、社会の変化に翻弄されるアイヌら大勢の人たちがいたのです。
誰袖、蝦夷地を巡る情報戦に自ら飛び込む
そんな蝦夷地とは本来、無縁のはずの吉原。しかし日本各地から身分に関係なく様々な人間が入り込む遊里は、秘密の情報収集に最適の場所でもありました。
旗本で、勘定組頭の要職にあった土山宗次郎(栁俊太郎さん)の相手をしていた誰袖(福原遥さん)ですが、「花雲助」を名乗る、端正な顔立ちの田沼意知(宮沢氷魚さん)に一目ぼれしてしまいます。その佇まいや周辺の様子で、相当に高位の武家、とも見抜いていたことでしょう。
一方、意知の方はもともとお座敷遊びにも誰袖にも関心がなく、松前藩をめぐる情報源との接触に神経を集中させていたのでした。
土山の仲立ちで紹介された「蝦夷の桜」を名乗る男。本名を湊源左衛門といい、実在の人物です。「シリーズ藩物語 松前藩」(現代書館)によると、湊は松前藩の勘定奉行の要職にありましたが、蝦夷地の山林開発などの利権をめぐる商人間の争いに巻き込まれ、訴訟沙汰に発展。天明元年(1781)に幕府と藩からそれぞれ処罰され、藩から追い出されてしまいました。藩に恨みを持ち、内情を知っていることも間違いないでしょう。
恐るべき誰袖の人間操縦術
意知に接近したい誰袖は、2人の会話を遣り手の志げ(山村紅葉さん)に盗み聞きさせ、意知が松前藩の密貿易の証拠を探していることを突き止めます。
父親に続き、女郎屋を継いだ息子の大文字屋もあっさり手玉にとる誰袖女郎者の主人の大文字屋は親子ともども、さらに今回の志げ。周囲の人々を意のままに操る誰袖の能力には恐れ入るばかりです。
誰袖は進んで松前藩を探る間者(スパイ)になります、と意知に持ち掛け、「わっちを身請けしておくんなし」とずばり本意を明かします。意知はどうするのでしょうか。
誰袖について「無邪気で可愛らしいようで、これがしたい、と思ったら突き進む強烈なキャラクター」と誰袖を演じる福原遥さんは「美術展ナビ」とのインタビューに答えていました。確かに海千山千揃いの「べらぼう」の登場人物の中で、実は誰袖こそ最も強烈かも、と思わせる一連のエピソード。歴史的にも波瀾万丈の人生を歩むことになる誰袖です。彼女の動向にますます目が離せません。
いじける春町、クリエイターの難しさ
この時代を代表するクリエイター、恋川春町(岡山天音さん)の様子が変です。
直接のきっかけは、北尾政演(山東京伝、古川雄大さん)が鶴屋から刊行した「御存商売物」という青本でした。
絵草紙屋の草紙類の勢力争いを擬人化して描いた一作です。江戸発の青本や洒落本が隆盛になる中、それをねたんだ上方の本が様々な妨害工作を画策するが…という内容。時代状況を巧みにとらえて文化を論じる深みもあり、大田南畝が絵草紙評判記の「岡目八目」で最上位とし、激賞しました。絵師のイメージの強かった政演が、作家としても地位を固めていく節目の作品になりました。
北尾政演 (山東京伝)作「御存商売物」 東京大学総合図書館所蔵これが面白くないのが春町。約4年前に著した自作のヒット作「辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしのね)」の趣向を使われた、という思いが頭から離れないようです。
恋川春町 画・作『辞闘戦新根 : 2巻』,[鱗形屋孫兵衛],[安永7(1778)]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9892435春町作のほうは、当時の流行語である「大木の切り口太いの根」「どら焼」「薩摩芋」「鯛の味噌ず」などが擬人化されて登場。「我々のお陰で草双紙が売れているのに、本屋の職人たちは我々を労おうともしない」と化物になって画工や版木屋などの職人を襲う、という奇想天外なお話でした。確かに擬人化のお話で、出版業界の舞台裏を描いた点でも似ていますが、政演の作品にも高度なオリジナリティを感じます。繊細に描きこむ画風も明らかに春町とは違い、特徴的です。蔦重がいうように「お互い様」の範囲内という気がします。春町の趣向を生かしているのは当時の読者なら誰でもわかるでしょうし、むしろ先人の創意を敬意を持って生かし、さらに発展させたという印象です。
ちょっとスランプ気味なのか、政演のように上手く立ち回れない自分が歯がゆいのか。春町は絡み酒でせっかくの宴席を白けさせ、「筆を折る」とまで。ただ、南畝(四方赤良)や喜三二を皮肉った狂歌はなかなかの切れ味でした。こうした小ネタが、さすが大河ドラマの制作、と思わせます。
「酒上不埒(さけのうえのふらち)」の狂名で、これから狂歌の世界でも活躍する春町の将来を予告したということでしょう。一方で、その繊細さや傷つきやすさは、彼の後の人生を考えると暗示的なエピソードともいえ、たくさんの含みを持たせた春町の行状でした。
宿屋飯盛 [編] ほか『吾妻曲狂歌文庫』,[蔦屋重三郎],[天明6 (1786)]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/14122014まだまだ修業期間の蔦重
いずれによせ、蔦重は春町をうまく取りなすことができませんでした。クリエイターの多くは「自分はもう作品を作れなくなってしまうのでは」「アイデアが枯渇してしまうのでは」というような不安を抱え、ライバルの動向も気になるものです。常に疑心暗鬼と隣り合わせなのは、時代も世の東西も問わないものでしょう。編集者たるもの、その辺りへの目くばせが欠かせないのも、これまた昔も今も一緒です。
錦絵の完成度が老舗の西村屋と比べて明らかに劣る、だから売れない、という指摘も受けました。スター絵師の北尾重政から「絵師と本屋がきちんと摺り師に指図できるかどうかで、仕上がりが全然変わる」という貴重なアドバイスをもらいました。
また蔦重は北尾政演と昵懇にしていても、その作家としての才能を見抜くことができませんでした。さらに政演が鶴屋から適切なダメ出しをもらい、ヒット作を生み出したという過程も耳が痛いものでした。ここでも「指図の差なのか」と気付いた蔦重。派手なヒット作は出しても、編集者としてはまだまだ身に付けるべきことが山のようにある、という教訓の数々でした。
蔦重がこの経験をどう生かすかがこれからのストーリーで描かれていくでしょう。決してへこたれる事のない蔦重。「大田南畝に青本を書かせる」「歌麿を一流の絵師に育てる」など、早速新しいチャレンジを温めはじめました。
おふざけのようで技巧尽くしの狂歌
前回に続き、見事な狂歌がたくさん登場しました。全部は網羅できそうもないですが、頑張って紹介します。
まずは宴席での誰袖のリクエストを受けて、大田南畝(狂名・四方赤良)がさらっと作った歌です。出典は「徳和歌後万載集」から。
さんやの里のほとりにて、垣根に朝がほの花さけるを見て 四方赤良
たった今 わかれてきたの 里ちかく 目にちらつける 朝顔の花
「吉原に近い、この山谷の里で、垣根に咲く朝顔の話を見るにつけても、たったいましがた後朝の別れをしてきた女の顔が、目先にちらついてたまらなく恋しい」(小学館「日本古典文学全集 黄表紙 川柳 狂歌」から)
「きた」は「北」と「来た」をかけており、「北の里」といえば、江戸の北にある吉原のこと。「朝顔」には遊女の朝の顔が二重映しになっています。情感豊かで、狂歌にはこういう世界もあるのか、と感じ入ります。
四方赤良(大田南畝)でもうひとつ。「屁」のモチーフで大いに盛り上がった宴席から。
「屁はこいたけど、アレは出なかったので……」という身も蓋もない歌ですが、本歌は御拾遺和歌集の名高い作品です。「七重八重 花は咲けども 山吹の 実ひとつだに なきぞ悲しき」(兼明親王)。
大田道灌が雨の日に蓑を借りようとある小屋に寄ったところ、若い女性が黙って山吹を差し出しました。道灌は意味が分からず怒って帰宅しましたが、のちほど、若い娘はこの兼明親王の歌を引用して「我が家は貧しくて蓑がないのです」と訴えたと分かり、道灌は自らの無学を恥じた、という有名な伝説の元ネタです。とっさにこれを引用し、見事に「屁」を歌った南畝のセンスには脱帽するほかありません。
◇
誰袖は歌も達者でした。古典の教養を生かした花魁らしい狂歌を残しており、当時の第一級の狂歌集「万載狂歌集」に作品を取られています。
寄紙人恋 遊女たが袖
わすれんと かねていのりし かミ入れの なとさらさらに 人の恋しき
「忘れなむと 思ふ心の つくからに ありしよりけに まづぞ恋しき」(古今集 十四 読み人しらず)が本歌。「あんな人はもう忘れてしまおう、と思い切る気持ちになるしりから、あれほど恋しく思っていた昔よりも、いっそう恋しき気持ちが先に立ってくる」(新潮日本古典集成「古今和歌集」より)という本歌の題意を生かしつつ、「紙入れ」に「神の意」を掛け、「さらさらに」は「改めて」という意があり、さっぱりと何もない、という意味と掛けています。殿方に向けて、チップにあたる「紙花」の催促、というメッセ―ジまで込めたのは巧みな誘導でした。
◇
駿河屋の女将、ふじ(飯島直子さん)もセンスのあるところを見せました。
白楽天の「長恨歌」から「連理の枝」をもじったものでしょう。「地に在りては連理の枝とならん」という仲睦まじい男女がいつまでも一緒にいたい、という願いを込めた有名な一節です。古典の教養が光ります。ふじからすれば、「吉原に長くいる女性なら、これぐらい朝飯前」と言いたいところでしょう。
◇
最後は智恵内子ちえのないし(水樹奈々さん)で締めます。
これも読んだ通りのナンセンスの極みですが、やはり古典の教養はしっかり。本歌は百人一首の76番のこれでしょうか。
作者は法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)。青い海と空、白い雲と波のコントラストが印象的な名歌が、女性狂歌の第一人者によってずいぶんな変わり様ですが、これぞ狂歌の世界、ということでしょう。この熱狂ぶり、いよいよ江戸の街を席巻する勢いです。蔦重はビジネスに繋げられるでしょうか。
(美術展ナビ編集班 岡部匡志)
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