「野球を嫌いになりかけていた」中日・中田翔が引退表明「もう一度大好きになってユニホームを脱ぎたい」(スポーツ報知)

 中日の中田翔内野手(36)が15日、バンテリンDで会見に臨み、今季限りでの現役引退を表明した。日本ハム、巨人、中日と3球団を渡り歩き、18年間で通算309本塁打。近年は腰痛に悩まされ、理想のスイングとはかけ離れていた。「野球を嫌いになりかけていた」と打ち明け、バットを置くことを決断。プロとして結果にこだわり続けた希代のスラッガーは「中田翔は中田翔らしく」を最後まで貫いた。  悔しさも苦しさも、中田は受け入れているようだった。「こういう形で(現役を)終わってしまって情けない気持ちもあるけど、スッキリした」。大野とブライトから花束を受け取り、奥歯をグッとかみしめた。目頭を押さえ「考え込まなくて済むのかな…」と、また静かにつぶやいた。  プロ18年目の今季が2年契約最終年だった。「6番・一塁」で開幕スタメン。4月19日のDeNA戦(バンテリンD)から2試合連続本塁打を放った。好調は長く続かず、5月13日に出場選手登録を抹消。腰痛だった。痛み止めの注射や電気治療。原因を突き止めようとしたが、状態は上向かなかった。  長いリハビリ生活で、精神的にも追い込まれた。7月中旬、頭の片隅にあった「引退」の文字が色濃くなっていった。母・香織さんや、家族に伝えたのも、この頃だった。「腰の状態もよくない。全力でやっている中で、満足いくスイングができないようになった」。チームがCS争いを演じている8月中旬で引退表明。「これ以上、チームに迷惑をかけられない」と中田なりの美学でもあった。  「この2、3年は精神的に考えることが多くて、野球を嫌いになりかけていた」。思うように体が動かず、結果も伴わない。心身ともに限界だった。大阪桐蔭で注目を集め、通算309本塁打。3度の打点王に輝き、WBCにも2度出場した。「野球は宝物」。心技体で自らを強くしてくれたのは野球だった。「野球を好きなまま」で、ユニホームを脱ぎたかった。  日本ハムで出会った栗山監督は、4番として生きる道を用意してくれた。21年途中から巨人へ。不振で2軍調整中には、長嶋茂雄さんが熱心に指導してくれた。「日本ハムに育ててもらい、巨人では勝ちに対してのプレッシャーを近くで感じられた。悔いを挙げるなら、中日に貢献できなかったこと」と在籍した3球団への思いを添えた。  今後は腰の状態と相談しながら、ファームで練習を続ける予定だ。ど派手な金髪に、金のネックレス。第一線で唯一無二の存在だった。「中田翔は中田翔らしく。スタイルは変えてはダメだと思って、やってきたつもりです。すごく幸せでした…。僕もユニホームを着られる限りはできることはやりたいし、もう一度野球を大好きになって、ユニホームを脱ぎたい」。記録にも記憶にも残ったスラッガーは、誇りを持ってバットを置く。(森下 知玲)  ◆中田 翔(なかた・しょう)1989年4月22日、広島市生まれ。36歳。大阪桐蔭では1、2年夏、3年春の甲子園に出場し、当時の最多記録となる高校通算87本塁打を記録。2007年高校生ドラフト1巡目で日本ハム入団。14、16、20年に打点王。13、17年のWBC日本代表。21年8月に日本ハムから無償トレードで巨人移籍。23年11月に巨人との複数年契約を破棄し退団。同年12月に中日入団。通算1783試合で打率2割4分8厘、309本塁打、1087打点。184センチ、107キロ。右投右打。  ◆中田に聞く  ―決断に至るまでは。  「スパッと決められたわけではない。思い通りにバットが振れるのなら、やっぱり、もう少しやりたかった」  ―腰痛との闘いは。  「体が思い通りにならないストレスはもちろん、追い打ちをかけるように結果も出ない。マイナスの方に考え込んでしまった2、3年」  ―引退を決断後に結果が出たら、考え直したか。  「それは、もうない。また活躍して終わりたいという気持ちはあったけど、気持ちと体が一致しなかった」  ―歴代の監督にも報告。  「もちろん。栗山さんの電話が一番長かったかな。『翔と俺の付き合いはこれからの方が長い』と、ありがたい言葉をもらった」  ―現役生活をどう締めたい。  「活躍して、お立ち台にという思いもあるけど、思い通りにいかない世界。(2軍で)若い子たちと汗をかき、すがすがしい気持ちでユニホームを脱げたら」

報知新聞社

スポーツ報知
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