「生物学」から考える、働く「ヒト」にとっての「幸せな組織」とは

東京大学 定量生命科学研究所 教授の小林武彦さんは、ゲノム再生に関する研究のほか、生物学の観点から「ヒト」の老いや死に迫る研究者として知られています。最新刊の『なぜヒトだけが幸せになれないのか』(講談社現代新書)では、「ヒト」の進化と社会の成り立ちを重ねながら、幸せの在り方を提言しています。生物学的な観点から見た、働く「ヒト」の幸せとは。「ヒト」が幸せに働ける組織とはどのようなものなのか。小林さんに、お話をうかがいました。

小林 武彦さん
東京大学 定量生命科学研究所 教授

1963年神奈川県生まれ。神奈川県立外語短期大学付属高校(現横浜国際高校)を卒業後、九州大学大学院修了(理学博士)、基礎生物学研究所、米国ロシュ分子生物学研究所、米国国立衛生研究所、国立遺伝学研究所を経て、東京大学定量生命科学研究所教授(生命動態研究センター ゲノム再生研究分野)。元日本遺伝学会会長。元日本分子生物学会副理事長。元生物科学学会連合代表。日本学術会議会員(基礎生物学委員会委員長)。著書に『生物はなぜ死ぬのか』『なぜヒトだけが老いるのか』『なぜヒトだけが幸せになれないのか』(全て講談社現代新書)、『寿命はなぜ決まっているのか』(岩波ジュニア新書)、『DNAの98%は謎 生命の鍵を握る「非コードDNA」とは何か』(ブルーバックス)、など。

著書『なぜヒトだけが幸せになれないのか』では、幸せを「死からの距離が保てている状態」と定義されています。

私たち「ヒト」が生きる中で追い求めている「幸せ」について考える中で、「そもそも幸せとはなんだろう」という疑問にたどり着きました。「幸せ」が人生の重要な目標であるなら、明確な定義が必要なのではないかと考えたのです。

そこで「ヒト」はもちろん、哺乳類や植物、微生物まで、全ての生き物が満たす幸せな状態とは何かを考えました。その結果、生き物にとっての「幸せ」は「死からの距離を保てている状態」だと定義したのです。

私たちは死からの距離を保つために、遺伝子を最適化して生きてきました。生きている中で感じる不快感や不安は、生存に対する潜在的な脅威を知らせるアラームのようなものです。たとえば、メンタルの不調で思うように働けなくなる人がいますが、この状態は、体が危機感を感じることで環境を変えたり行動を変えたりするように促す、生物としてのアラームとして捉えることができます。

直ちに死につながるわけではありませんが、そうした状況が重なったり、そこから脱出できなくなったりすると、心身ともに病んでしまうのは当然です。現代社会を生きている私たちも、生物的な体の反応を持ち合わせていると言えるでしょう。

現代を生きる「ヒト」の遺伝子は、いつ頃定まったのでしょうか。

私たちの遺伝子が形成されたのは、700万年におよぶ人類の歴史の大半を占める、「狩猟採集時代」です。長い期間、人類は集団で協力し、獲物を分け合いながら生き残ってきました。集団から追い出されないことが、「ヒト」が「死からの距離を保てている状態」、すなわち「幸せ」な状態だったのです。

集団で生存するために重視された要素は、ルールを守らない者を罰して集団の秩序を保つ「正義感」、働きに応じて平等な分配を行う「公平性」、他者のために行動し集団の結束を強める「利他性」、仲間の気持ちに寄り添う「共感性」、協力して課題を解決する「協調性」、そして集団のために自らの能力を発揮する「貢献性」でした。これらの要素を多く持つ人たちが生き残り、その遺伝子が現代まで受け継がれてきたのです。

しかし、約3000年前に日本に「農耕」が広がり、定住生活が本格的に始まってから、社会は大きく変化しました。農耕は生産性を高め、時間的余裕や技術的進歩をもたらしましたが、それと同時に「格差」を生み出したのです。

「狩猟採集時代」の社会は、「物を持たず、獲物は公平に分配される」のが基本。格差は悪であり、富を独占することは集団の調和を乱す行為でした。一方、「農耕」中心の定住社会では物が持てるようになり、格差が生まれました。この格差に、私たちの遺伝子は慣れていません。

格差による妬みや警戒心など、集団全体の不公平感がまん延する中で生まれたのが「階級」です。「私とあなたはそもそも違うのだから、比べるな」という発想で、富の偏在による略奪や争いを防ごうとしたのです。

現在では市民革命などによって多くの国で階級はなくなったものの、格差は現代社会にも残っています。私たちは、「なぜ政治家が何代も続くのか」「なぜこれほど努力しても報われないのか」といったモヤモヤを抱えています。遺伝子に刻まれた「公平性」や「正義感」が、現代社会の格差と不適合を起こしている証拠と言えるでしょう。

これまでうかがったことは、「健全な組織づくり」や「働く人のウェルビーイング」のヒントとなりそうです。「ヒト」が「幸せ」に働ける組織であるためには、何が大切でしょうか。

約3000年前まで「ヒト」は、狩りや食事、睡眠、生殖活動、子育てをはじめとする全てのライフワークを一つのコミュニティの中で行っていました。

現代人における主要なコミュニティといえば「会社」でしょう。しかし会社は、従業員のライフワークにおいて、主に「働く」部分でしか役割を果たしません。

家庭を持ち、子どもを育て、地域社会に参加し、趣味や関心に没頭して余暇を楽しむ。「プライベート」での社会参画と「労働」の両輪が回ることで、人生は充実したものになります。仕事が多忙でプライベートが脅かされれば、遺伝子は「死からの距離を保てない」と察知し、「幸せ」を実感できずに離職を検討することになるでしょう。

高度経済成長期の会社は、社員旅行や運動会などの開催、結婚の仲介など、仕事以外のところでも社員の生活にも関与していました。それはある意味、理にかなっていたということでしょうか。

確かに昭和における会社の在り方は、従業員である「ヒト」の幸せに貢献する部分があったかもしれません。しかし、「組織への所属」が目的となり、会社のために私生活を犠牲にして働く「モーレツ社員」のように、「会社イコール個人の人生」という近すぎる関係は、結果として会社と従業員の双方にマイナスの影響を与えかねません。

「ヒト」が「幸せ」に働くために、会社はプライベートと仕事を両輪でサポートする必要があります。従業員に対して「働いてくれればいい」と考えるのではなく、一人の人間として尊重し、ライフイベントへの支援も惜しまないことが重要です。現代は、同じ会社で働いていても、住む場所や家族構成、会社の外で所属するコミュニティはさまざま。価値観やライフスタイルの多様化を前提に、支援を設計する必要があるでしょう。

たとえば、テレワークやフレックスタイム制だけでなく、育児や介護と仕事を両立できる制度を設けたり、定年後の孤独を防ぐセカンドライフの支援を行ったりするのもいいかもしれません。「ヒト」には、集団で生きる性質が遺伝子に刻まれており、コミュニティから疎外されれば「死からの距離が縮む」ことになります。だからこそ、会社を辞めた後も所属できるコミュニティの存在は、人生100年時代を生きる上で極めて重要です。

現代は、「タレントマネジメントシステム」をはじめとした、個人の情報を管理するテクノロジーのツールがあります。こうしたシステムと、人と人との直接的な対話を組み合わせることで、従業員がより自分らしく生きられるようにサポートできるでしょう。

「ヒト」は「集団の幸せを追求する」性質を持っていると著書で述べられていました。そのような性質を持っている「ヒト」が、働く中で「幸せ」を実感するためには、どのような環境を用意すればいいのでしょうか。

「ヒト」が働く中で「幸せ」を実感するためには、「公平」であり、「組織に対して貢献できる機会・実感」を提供することが重要だと私は考えます。「狩猟採集時代」に集団で生きていた「ヒト」は、食料を得るために貢献し合い、食べ物をシェアし合うことで生き残ってきたからです。

「狩猟採集時代」に「ヒト」が生活を共にしていたコミュニティは、せいぜい数十名の規模です。それぞれ何が得意で、どのくらい仲間のために動いて、どの程度集団に認められているのかといったことが、特別なことをしなくても分かり合えたと想像できます。

しかし、現代の会社は、ある程度の規模になれば部署が分かれ、拠点も複数になり、分社化も進みます。所属チームは数名のメンバーだったとしても、全体では数千人、数万人というところも珍しくありません。大きくなればなるほど分業が進み、組織の透明性は失われていきます。

組織が大きくなるほど、個人の努力や貢献が見えにくくなり、やりがいを感じにくくなる。そこで重要になるのが、「組織の透明性」です。このような組織をつくるためには、次の二つを意識することが大切だと私は考えます。

一つ目は、従業員同士の「仕事における相互理解」と「交流」の促進。部署間の連携やコミュニケーションを促進し、互いの仕事内容や苦労を理解し合う機会を設けるといいでしょう。たとえば、企業内留学制度や他部署での短期研修は非常に有効です。ある大手企業では、週5日間のうち1日だけ他の部署で働くプログラムを導入し、従業員の視野を広げ、従業員同士の相互理解を深めています。

これにより、従業員は、自身の業務が組織全体にどのように貢献しているかを実感できます。また、「自分だけが大変なのではない」という共感を生み、不公平感の解消にもつながるでしょう。

二つ目は、「フィードバック」や「評価」における質の向上。貢献したことを実感できる「納得感のある評価」や、より組織に貢献できる個人へと成長できる「成長を促すフィードバック」が重要だと考えます。

議論の余地はあるものの、健全な組織であれば、評価をオープンにするのもいいでしょう。自身が貢献していることをより実感でき、頑張っている人に対する感謝の気持ちも生まれるからです。評価が芳しくない人に対しては、「チームでバックアップしよう」という気持ちが生まれ、組織全体のパフォーマンス向上につながると考えます。

ただし、「個人の成果」にフォーカスし過ぎて利益が偏在するようでは、生き残る「集団」の特性を損ねてしまいます。「狩猟採集時代」に獲物を捕った者を賞賛していたように、組織への貢献を称賛する文化の醸成が重要です。

また、「ヒト」が集団への貢献に喜びを感じるためには、集団における使命への共感が必要不可欠です。ミッションに共感できなければ、組織に「貢献」できず、会社で生存することが困難になるでしょう。

テクノロジーの進化と利活用は、現在どの組織にとっても重要なテーマといえます。

700万年前から現在にかけて、「ヒト」の暮らしが大きく様変わりしたのは、進化の過程で遺伝子に「モノを創る力」が刻まれてきたからでしょう。

スマートフォンは便利ですが、自分の意志とは関係なく動画やSNSを眺めていることはないでしょうか。仕事や生活に欠かせない情報インフラとなる半面、デマや犯罪の温床と化すなど、「ヒト」はテクノロジーの使い方をうまく制御する術を持ち合わせていません。

昨今のテクノロジーの進化は目覚ましく、誰でも最新のテクノロジーを気軽に試せる一方で、使い方を誤ったときのリスクが大きいことを、私たちは自覚しなければなりません。

例えば生成AIを、人間の仕事や研究、勉強を「支援する」という目的で使うのはいいけれど、「丸投げする」となると話は別です。「ヒト」の知的活動が失われ、AIだけが賢くなり、「ヒト」が組織への貢献を感じづらくなるという皮肉が待ち受けているからです。それでは、やがて「人間の判断よりAIの言うことが正しい」と、人間がAIにおうかがいを立てる構図が当たり前になっていきます。地球上における人間の存在価値をも危ぶむもので、まさに「死からの距離を縮める」不幸な現象といえるでしょう。

昨今は、労働人口の減少によって業務効率化が急務であり、会社でAIを用いるケースが増えています。ただし、「効率化」と「生産性」は同義ではありません。「ヒト」が生み出すものが最大の価値を持つように、私たちはテクノロジーと向き合う必要があります。一筋縄ではいかない問題ですが、人間が考えることを諦めてはなりません。

個人のやりがいや成長を損なうようなテクノロジーの導入は、かえって従業員のエンゲージメントを低下させ、離職を促進する可能性があります。人事部には、「テクノロジー」を単なる効率化の道具としてではなく、従業員の「創造性や成長を支援するツール」として活用していく視点が求められます。

従業員が前向きに働く組織には、組織をけん引する「良いリーダー」の存在が不可欠であるように思います。

「良いリーダー」の存在が、ヒトの進化の歴史において集団の生存を左右したのは想像に難くありません。生物学的視点から「良いリーダー」の資質を挙げると、次の四つにまとめることができます。

一つ目は、「集団」としての生き残りの戦略に長けていること。二つ目は、シニアであること。必ずしも年長者である必要はありません。経験や知識が豊富で、利他的な精神の持ち主を指します。三つ目は、公正に評価できること。四つ目は、公正な評価に応じた公平な分配ができること。

そして、リーダーの仕事として重要なのは、次のリーダーの「抜擢(ばってき)」だと考えます。よく「上司の役割は、自分よりも優秀な部下を育てることだ」と言われますが、そのとおりです。後任のリーダーが前任に劣る状況を想像してみてください。自然の摂理に従えば、集団が淘汰されるのは時間の問題です。

人事部の方に向けて、メッセージをお願いします。

人事部はどんな企業でも、全ての従業員が必ず関わる部署です。その点においては、「正義感」「公平性」「利他性」「貢献性」「協調性」「共感性」が最も問われます。たとえば、人事制度や人の配置は、どのような正義に基づくものなのか、集団にとってどのようにプラスに作用するのかを説明できなければなりません。ハラスメントやメンタル不調といった、死からの距離を脅かす事象の受け皿となる点で、従業員の「幸せ」に大きく関与することを理解しておくことが重要です。

その上で人事部は、従業員が「ヒト」として豊かに生きるために、多様なライフイベントと仕事のバランスが取れた「幸せな組織」を実現するための羅針盤となるべきです。従業員が「死からの距離が保たれている」と実感し、充実した人生を送れるよう、会社というコミュニティ全体で支えていく視点が、これからの人事には求められます。

(取材:2025年6月23日)

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